2023年 日本を護るために
2024年 7月6日 私たちはどう生きるか
今の社会は以前よりもましてお金がジャンジャン入ってくるという人と、それに引き換え今日一日どのように生き延びるのかと考えあぐねる人がいる、だからと言ってこんなことは今に始まったことではない。ところが巷では今が人類存亡の危機と感じている人が増えている、何を隠そう私もそう感じる一人なのだ。というのも今また迫りくる感染症の気配や、戦争の危機、あるいは経済の危機など挙げればきりがない、そんな脅威が足並み揃えて迫っているように感じるのだ。
中でも原因不明のコロナ感染症では、現在もワクチンによる健康被害救済の届けが急増している。不思議なことにこの対策は、厚生労働省の資料によると第145回疾病・障害認定審査会 (感染症・予防接種審査分科会)2021(令和3)年12月9日 時点ですでに取り上げられていることだ。つまりワクチンによる健康被害はこの時すでに想定されてはいたが、このような危険性をはたして国民に対し充分周知されたうえで接種を行っていたのかという疑念が残る。
次に迫りくる戦争について言えば、現在、日本からロシアへの挑発ともとられかねない行為が目立っている。経済制裁はもとより、これは、大変危険な行為と言わざるを得ない。というのもこれを甘く見たウクライナは現在どのような状況になるっているのか、いやむしろ日本はさらに悲惨な状況になり得るのだ。どういう事かといえば、憲法により交戦権すら認められてい国が、ことを起こせば、相手が攻撃を止めるか、一方的に戦闘を放棄してこちらが降伏するかのいずれかの選択しかない。つまり我が国はウクライナのように停戦条件を突きつけ合って交渉するという停戦プロセスすら踏めないことになる。こんな状況にあるにもかかわらず、日本はNATOとの軍事演習まがいの計画により隣国ロシアから抗議されている状況なのである。恐ろしいことに軍事演習といえばウクライナ戦争が始まる前、ウクライナ国境においてロシアは頻繁に軍事演習を行っていた。それが何時しか現実の侵攻に繋がっている、要するに軍事演習とは一発触発の事態を相手国に見せつける威嚇行為なのだ。
さらに日本経済を見れば、ここ最近の歴史的円安が話題にされている。ところがその反対に空前の利益を出している輸出関連企業も存在している。そして税収もそれにつれて空前の税収を記録しているのだ。一方今朝のシンガポールのニュースによると今年の1月から6月で日本の企業倒産件数は4800件を超えているそうだ。先日話題にしたゾンビ企業の倒産がいよいよ現実となっている。つまり企業が倒産したということは雇用がその分失われたことになる。この状況の中でも日本の経済界はこの現状に目を向けようともしない、まるで経済の勝ち組が世の中の全てでもあるような云いようで、消費税を増やせだの、円安だから金利を上げろだの言いたい放題の有様だ。これがさんざん日本国民のお世話になってきた企業の言葉なのか、もしこれから金利が高騰すれば借金を抱える被災者や零細企業の資金繰りはどうなるのか、こんなことに経済の荒波を掻い潜ってきた人間が全く意に介さないとは呆れるよりも恐ろしくなるのである。
私はこのような現実を目にして思うのは、このようなことが人災なのであれば何故人類はこれほど恐ろしい世界に向かってしまうのかということだ。おそらくそう仕向けるような考え方が、世の中に存在しているのだろう。ではその考えとは何か私はそれが唯物論だろうと決めつけている。そこで彼らの考えを分かり易く理解しようとすると、彼らは物質というものがすべてであり、それ以外は非科学的事象であるという認識を持っている。つまり彼らは物の究極の姿は粒子であり、とどのつまり物質はすべて数量的に捉えることができるので、その視点から無理やり幸福や人生の意義を理解しようとしているのではないだろうか。つまり人の価値もこれらのごとくお金や肩書など数量的に置き換えられるものであり、これにより完璧に表現できると考えてしまうのだ。ところが、この考えを進めていくと稼ぎの悪い人は価値がない、という結論に至ってしまう。つまり生産性のない人は社会に参加しなくてもいいという発想になるのだ。要するにどうせ価値のない人間は生かしておいてももともと社会には貢献できないので、世間から非難を浴びないよう死なない程度のお金を渡しておけば、社会に参加しなくてよいという極論になる。ベーシックインカムなどという横文字を使うといかにも人道的配慮に見えるが、これほど殺伐とした考えで暮らすことに、彼らは虚しくならないのかと逆に心配になってしまう。むしろ私は職業というものは人間が存在する限り無くなるものではないと考えている、というのも人間は現状に満足できないという宿命を背負っているからだ。職業はその隙間を埋めることで喜びをあたえる、報酬はその対価をお金に置き換えているだけのものだ、したがって人の喜びが理解できずに職業など成り立つものではない。計画経済が上手くいかないのもこの辺の理由によるのではないだろうか。
さてこれに対する私の思いは、命はすべて望まれて生まれてきていると思っている。私は先に挙げた人たちはこのことを見失っているのではないだろうか。なので彼らは他人の命も数値に置き換えなければ、本質的に命を認めることは出来ないのだろう。なぜなら彼らは神という大いなる意志を認めないからだ。
さて明日は東京都知事選の投票日になる。私は立候補者の中に田母神俊雄候補の名前を見つて嬉しくなった。というのも以前このブログで日本は素晴らしい国と言って職を追われた幕僚長という記事を載せたが、いまだにその思いは続いている。だからと言って氏の政策について研究したわけでもない。ただ日本の未来を考えれば、どのような生き方をすれば自分たちの未来に希望が持てるのかと考えた場合、その先には日本の縄文時代が繋がっていると思っている。どのようなことかといえば、それは田畑という大地から受ける恵みに感謝すること、祖先から繋がる日々創造することに喜びを見出す母なる心、そして大いなる意志である神を尊ぶことだろう。田母神氏のお名前にはこのような思いが表現されているのではないだろうか。18歳以上の都民の方には是非投票によって日本の未来を、自分たちの未来を救ってほしい。