2023年 日本を護るために
2024年 7月21日 ジャーナリストの良心
函館の西部地区にある道をまっすぐ火葬場に向かうと、不思議な姿の墓に出会う。ある人はこれを心霊スポットのようにいう人もいるが、この墓は信濃治助という方のお墓で、氏は明治27年函館の地に移り住んだそうだ。ところで、氏をこれほどまで有名にしたのは、翌年に起こった日清戦争で、この勝利を現在の北海道新聞の前進である北海新聞の号外として自ら印刷し配ったそうだ。ところが、それを配る氏のいで立ちを見て当時の函館市民は度肝を抜かれた。なんと頭のてっぺんから靴の先まで赤ずくめで、街頭に立ちながら号外を配っていたのだと言われている。いまならちょうどカズレーザー氏を思い浮かべると分かり易いのかもしれない。ところで、このいで立ちが何を現すのかというと、赤心という嘘偽りのない姿を表現しているのだそうだ。
さてここまでの事だけなら、ただの一風変わった号外屋さんで終わるのだが、写真にある通りこの墓は、当時から今日までずっとペンキを塗り直され、手入れをされてきた。この写真は今年の7月13日に撮ったものでこの日は函館のお盆に当たる、写真ではお花がすでに飾られていることから、この時は誰かがすでにお参りを済ませていたのだろう。それではなぜこれほど、この方が市民に愛されているのかといえば、この十年後に起こった日露戦争において、氏の取った行動が今でも市民に愛される所以ではないだろうか。というのも日露戦争では日本から8万人以上の兵士が出征され、函館からも多くの方が出征し亡くなられたのだという。ところがその兵士の家を氏は一軒一軒訪ねて回り、自ら募った義援金を届けたのだという。つまり氏は知り得た情報をただ伝えることが、自分のすべてとは考えていなかったのだ。彼の心には華々しい戦果の陰に残されたものの悲しみがあることを忘れていなかった。
さらに氏の思いは、留まることなく日本の未来にも向けられていた。というのも幼児教育の必要性に、早くから気づかれて私立幼稚園設立にも尽力されたという。それにしても現代のジャーナリズムがまるで何かにおもねるのように、一方的な見方を視聴者に押し付け、国の未来や秩序をまるで顧みない姿は嘆かわしい限りなのである。