新 思考ラボ
2025年 10月28日 幸福論

人は何故幸福を求めるのか、と考える前に幸福とはどのような状態かやはり定義が必要になるだろう。とはいえ今日のように人間の認識すら電気信号に置換え可能と思われる時代においては、その定義すら簡単ではない。というのも仮想現実で事足りるこの時代においては、錯覚が招いた認識であっても、頭の中で幸せホルモンが分泌されれば人間の脳みそはこれにより幸せを感じたと勝手に思い込むからだ。逆にいまではこれを否定することの方が難しい。
ではこのような幸せホルモンは、どのような条件が揃えば分泌されるのかといえば、これが分泌される切っ掛けの多くは、個体の生命維持に関わる場合で、それにより生命の永続性が保たれる場合生命は幸福を感じることが分かる。具体的にいえば、食料の確保や、生存競争における優位性が認識できた場合、或いは自分の存在がそのコミュニティーに必要とされていることを自覚できた場合など、生命は幸せを感じるのだと思う。しかも人間の場合は、たくましい想像力のお陰により更に複雑な幸福感を得ようとする。それが永遠の個性というものだ。間違わないで欲しいのは、これにより永遠の命を否定しているのではなく、個性という欠乏感によって成立している存在に対する認識の事だ。
これについて、もっと極端なことを言えば私は意識の根源は一つしかないと思っている。つまりこの意識が欠乏という認識により個性という分断にあっていると解釈している。その根拠として、これほど広大で無限に思える宇宙が、たった一つの物理法則で繋がっていることの疑問にある。しかもその物理法則は人間の認識レベルによって変容してしまうそうなので、ますますその確信を深めてしまうのだ。たとえば、この宇宙の時空を支配するのが光の速さだとすれば、これも考えてみればいかにも不思議なことなのである。つまり、これほど広大な宇宙空間で人間の目ともっとも馴染みの深い光が、なぜ時空間を司るたった一つの物理法則の根拠となっているのか。それは実際のところ光を認識しているのは、たった一つの存在でしかないからなのではないか、と思うのだ。
ところが、このような問いかけに聖書などは最初に答えている。というのも、このような疑問から、はじめに光ありきとされる聖書の言葉は人間の認識できる宇宙そのものを示す言葉だったのではないだろうか。因みに科学万能と言われて久しい現代科学だが、いまだにその技術を結集しても光が抜け出すことのできないブラックホールの内部は観測不可であり、極小の粒子と説明される電子の動きも、結局雲のように霞んで見えないのだという、つまり光で観測できる境目が人間にとっての宇宙の境目ではないのだろうか。
話がそれてしまったが、人間の意識について特に集合意識や無意識と呼ばれる世界は、ここ100年の間様々な検証が試みられてきた。しかしながらその実体は未だに捉えられていない。とはいえ私は無意識や集合意識の実在を認めることが人類にとっての幸福に繋がると信じている。というのも個性という認識は、そもそもその宿命として欠乏感というものを背負わされいる存在と認識しているからだ。そして幸福感は、その欠乏感を解消することによって、ようやくもたらされるものだと思うからだ。
かなり飛躍した考えになるかもしれないが、私の考える悟りとは、この個性という仕切りを取り払うことにある。というのも、すべての存在はそもそも満たされた存在なのにもかかわらず、わざわざ絶望的な欠乏感を背負い込みその解消に明け暮れてしまっているからだ。では何故そんな事に成るのかといえば、それが宇宙の意志だと考えるしかない。とはいえ、この欠乏感、どのように付き合うかはそれぞれの個性に任されているように私は感じる。ならば私はこれを逆手にとって、自分の個性をもってこの世では喜びに明け暮れてやろうと思っている。
そこで思いついたのが人が喜ぶのを見て自分も喜ぶことだ。つまり世の中皆、自分のアバターと錯覚してしまうことだ。これができれば、この世の中に喜びは無限大になるのではないだろうか。