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今昔問答

2025年8月10日ようこそブログ

2025年 8月5日 何故、極右に嫌われるのか?

あえて、不当なレッテル張りに乗っかって話すと、極右が今一番恐れるのは、左翼でも何でもない今の政府だ。というのも政府とは日本を動かすための権力が最も集中する組織だからだ。この内閣の閣議決定により様々な予算や法令が編成され国会承認を通過すれば、それに基づく行政が粛々と行われていく。つまりこの組織が国民が最も信頼を置かなければならない組織のトップであり、その責任の重さは他に比べようがないのである。

そのような組織なので、ここが国民の支持を失うという事態は、民主主義国家としてはなはだ忌々しき事なのである。つまり、日本の民主主義を守るためにも、国民の支持率を失った内閣に対して否定的立場を取ることは必須であり、国民を代表する国会議員であれば当然の使命なのである。とはいえ、国民の支持といえば、マスコミによる支持率の発表がある。ところが、これには明確な定義があるわけでもなく、所詮マスコミ独自の方法で調査した私的な調査結果にすぎない。そのため、厳密に国民の信を問うのであれば、やはり選挙の結果が最も重んじられなければならない。

ところで、この総理は就任依頼、何故一度も選挙で勝利出来なかったのか、その理由はハッキリしている。それは政治が日本国民の利益に反しているからに他ならない。具体的にいえば、いま盛んに流されているテレビコマーシャルを見るだけでよくわかる。驚くべきことにGDP世界3位のこの国では、貧困のため一日の食事が学校給食しか与えられない子供たちが大勢いるのだという。因みに過去何十年もテレビの前に噛り付いていた私はこれほど日本が貧しくなることを未だに信じられないでいる。

結局、日本の子供たちが何故これほど飢餓にさらされているのかを考えると、これは、政府が国民の基本的人権を顧みない政治を行っているからだと思っている。因みにこの状況は、首相が少子化対策は政策の一丁目一番地だと発言して、法外な予算を計上しているにも拘らず一向に改まる様子がない。むしろ彼らが血眼で群がる少子化対策予算の一部でも、直接彼らの手に届けられてさえいれば、まじめな納税者が、このような悲惨なコマーシャルを目にして心を痛めることも無くなるはずだ。

ところがもっと、驚くことに海外で起こった戦争やエネルギー開発には国会すら通さないお金が、まるで政治家のポケットマネーでもあるかのように支払われているのだが、これほど他所では裕福そうに振舞っている同じ人間が、一方の国民の前では収入が乏しいので福祉を削るか増税が必要だといって悪びれることがない。しかも税収は空前絶後の伸びを示していて、増税の必要などどこに有るのかと思ってしまう。そればかりか選挙が近づくと慌てて、税収が増えた分は現金で戻しましょうと言い出す始末で、これまで何を根拠に税収が足りないと発言してきたのか、言葉というものに一貫性がまるでない。ましてや、このような人が日本政府の名を使い日本の歴史に何事かを語るなど、日本人として看過できるものではない。

さて、こんな人が政治のトップにいること自体、日本国のリスクだと思うが、不思議なことにこれを応援したいという人が公共の電波から、無茶な発言を垂れ流している。というのも、先ほどから述べてきた通り、今の政治は日本国民にとっては有害であり民意を反映したものとは言難い。むしろ、国民の願いとしては、このような政治は一刻も早くやめて欲しいと願うのだ。ところがこんな政治がこれからも続いてほしいと願う人が湧いてきた。

なんでも私のように今の政治を疎ましく思う国民は、極右思想を刷り込まれたポピュリストなのだという。何を根拠にと思いその記事を覗いてみたが、結局そこには何の定義も、話の筋道もなかった。要するに、この話を納得させる根拠は発信者の彼らが高学歴で現在も高収入を得ているということぐらいで、まるでハロー効果の錯覚を狙った刷り込みのようだ。ここから類推すると彼らが狙うのは、政治を自分の頭で理解しようという人達ではなく、人の話をあまり深く考えず、印象だけで思い込んでしまう理屈のいらない人達への印象操作でしかない。これは嘗てゲッペルス宣伝大臣の用いたプロパガンダという政治手法と同じ匂いがしてくる。

さて、このような人達に護られたこの人物、何が問題かといえば、呆れたことに過去から今日に至るまでその主張にまるで一貫性が無いことだ。というのも、あるときは尖閣に自衛隊を常駐させることが必要だと言って、今は亡き石原慎太郎氏と対談し極右発言を展開していたと思ったら、今度は選挙の敗北は総理総裁の責任だと言って、選挙で敗北するたび当時の首相にたいし直談判をしてきたという勇ましい経歴を持っている。このように他者に対しては極めてシビアな対応を繰り返してきた人間が、現在のように敗北を重ねているにもかかわらず、みっともなく権力にしがみ付いているさまは、自分の言葉に責任を持つ人間としては認めることが出来ない。もしこれが、言葉を話さない犬猫の世界であったにしても、このような無責任な固体は仲間として認められることはないだろう。

つまり、このような人を擁護する感性とこれを批判的に受け止める人の感性の違いはどこにあるのか、それは日本国民という視点を通してみればよく分かるはずだ。要するにこの人物を否定的に思う人は、極右でも歪なイデオロギーを刷り込まれた人達でもない。むしろ政治は国民のためにあり、それは日本国民全体の幸福を実現するための仕組みであることに目覚めた人たちなのである。

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Posted by makotoazuma