今昔問答
2025年 8月13日 ポピュリズムを考える
この言葉は共和制などの議員代表制による国が抱える悩みだった。というのもローマ帝国の時代から大衆に迎合する政治はその裏で大衆をどのように都合よくコントロールするかという目的が潜んでいたからだ。当時も皇帝は市民が余計な関心を政治に向けない様に、民衆の関心を拳闘や芝居、浴場に向けさせることに腐心していたという、その最も象徴的な遺跡の一つがローマのコロッセオだ。
さてこれのどこが悪いのかというのは、大衆が政治の本質的な問題に関心を示さなくなり、そのため政治の腐敗や帝国の未来に対するビジョンが政治に反映されなくなることだ。ようするにこの結果帝国の求心力は失われ帝国の崩壊を招いたという落ちになる。
ところで、21世紀を迎える現代の日本においても盛んにこのような非難を浴びせる人達がいるが、とはいえその非難はもっと深刻な問題を含んでいるので厄介だ。というのも現代のポピュリズムは何故かナチズムと結び付けられてしまったいるからだ。なぜこのようなレッテル張りが横行するのか、残念でならない。そもそもナチスが台頭する20世紀初頭世界大戦に敗北したドイツは賠償金の支払いのために経済は荒廃し、その上世界恐慌に見舞われるという2重の苦しみに喘いでいた。国民は、職を失い死んだ馬車馬にまで群がり飢えをしいでいたという。ここに救世主のごとく現れたのがNSDAP党で、彼らはドイツの荒廃を反ユダヤ主義、反共産主義という当時すでにヨーロッパ全土に巻き起こっていた風潮に民族至上主義を掲げ政党の支持を集めていった。それに伴うあまりにも悲惨な結果には決して賛同できるものではないが、国民ファーストと民族至上主義を同列にしてしまうのはあまりも飛躍が過ぎる。
このような経緯をあまり深く詮索せず、国民ファーストといえば、まるで民族至上主義の如く扱われてしまうのは、民主主義に対する正しい教育が行き届いていない結果ではないかと危ぶんでしまう。つまり国民ファーストこそ民主主義の根幹だと言う事の理解を正しく伝えなければ、日本の税金が日本人のために使われることや、日本の政治家が日本人の生活を護るために働かなければならないことが理解されないのではないだろうか。
つまり、ここが子供たちの心に響かなければ、今後も投票率が伸びることもなければ、政治への正しい理解も深まらないだろう。
要するに日本人が自分たちの未来を託し、国民に寄り添う政治家に国の政治を行ってもらうこれが一般的な民主主義で、これが国民ファーストの考え方になる。よほど曲がった見方をしない限り、これを民族に優劣をつけようなどと言う言葉には聞こえてこないはずだ。とはいえ人間は、そもそも群れをつくる生き物であり、そのため何かと帰属意識を確認してはコミュニティーの結束を強めたがる。普段の生活でも同じ制服や同じTシャツを着て同族意識を確認し合うことも、恐らく命の深いところに刻まれた当たり前の感覚なのだろう。
その中でも現代社会において最も大きなコミュニティーが国家であり、その象徴が国旗なのである。このことは世界の共通認識であり、まともな国では国旗に対する侮辱行為は重い犯罪行為とみなされる。このような当たり前の国際感覚も社会に旅経つ前の子供達には是非身につけて欲しい感覚といえる。というのも国際社会に出れば、皆が皆平和を望んで暮らしているとは限らないからだ。もしそのような危機に遭遇した場合には、どのように自分の命を守るか事前に考えておくことが必要になり、これが大人としての責任になるのだ。