思考ラボ
2023年 7月16日 不思議な繋がり
私は40年前に撮られた不思議な写真を持っている。それはエーゲ海のクルーズ船で自分が知らないうちに撮られた記念写真だ。その中でも。特に気になっていたのが上陸用のカッターでとられた1枚だ。そこには当時から有名だった立花隆氏が映っているようだった。その姿はかなりハッキリ映っているにも関わらず、ハッキリと断定できなかったのは立花氏とエーゲ海クルーズの繋がりを理解することが出来なかったからだ。
ところが今朝ほど偶然見たTV番組で、エーゲ海と立花氏との繋がりが理解できた。番組では立花氏がエーゲ海を取材しているいでたちも映っていたが、その姿は私の写真とぴったり符合していた。私はこの番組でようやく40年前の謎のつながりを理解することが出来た。とはいえ、私がこの写真にもっと興味があれば、これほど時間を要しなくてもすぐにその確証は得られていたはずだ。ところが結局その謎の解明は、今朝ほど視た「見えた 何が 永遠が」 という番組の再放送を視聴することでしか確かめられなかったのだ。私はここに不思議なご縁を感じているのだ。
とりわけ私は物事を自分に都合よく解釈する方なので、今回の出来事は、このブログの進み具合に合わせた立花隆氏からのエールだと受け取っている。ご存じの通りこのブログでは知とは真逆のアプローチではあるが、無とはないか死とは何かをテーマにしてきた。その記事もいよいよ終盤に差し掛かるところで、この番組に出会えたことは偶然にしては出来すぎだと思うのだ。
実際この番組で紹介されていたのは立花氏が最後まで探求していた死とは何かという問いだった。立花隆氏といえば知の巨人と言われるほどあらゆるジャンルの知識に精通し、その知識欲は留まることを知らない、とうとう蔵書のために都心にビルを建ててしまったほどだ。そしてそのライフワークとして取り組んだのが死とは何かというテーマだった。ところが自分の死を目前に立花氏はそこまで集めに集めた蔵書を自分の死後にあっさりと手放してしまうことを決断する。それは生前求めていた生き方とは真逆の選択のようにも思えたが、番組はその謎を数多くの取材を通し探るものだった。
中でも立花氏の著書エーゲに取り上げられた詩人が語る、永遠が見えたとは何か、これが立花氏が探求した重要なテーマであることから、永遠から無へと変化する立花氏の心境を、現実に死に向かう立花氏の取材をとおして迫ろうとしている。
ところで、知の巨人の功績とは、真逆の歩みを進める私のブログを引き合いに出すことは、おこがましいにもほどがあるというものだが、このような繋がりを私は今まで意図していたわけではない。むしろ立花氏の訃報を耳にしても、それは著名な1ジャーナリストの死であり、私個人との関りを意識することはなかった。
ところが今朝起きがけにTVのスイッチを入れた瞬間、偶然飛びこんできた番組に、私はとうとう最後まで離れることが出来なかった。
因みにこの番組で私が特に印象深かったのは、臨終間際の老婆からその心境の答えだった。その答えとは自分の最後に立ち会った人たちに感謝を伝えることだった。それにより自分は幸せを感じることが出来ると言っていた、つまり彼女の人生は感謝という喜びを伝えることで完結すると答えたのだ。この答えに立花氏は打たれたと言っていた。
では立花氏は何故、あれほど苦労して集めた蔵書をあっさり捨てようと思ったのだろうか。本来蔵書とは、収集した人間の思考体系そのもののはずである。つまり、立花氏の探究してきた思想を残そうと考えれば、それを支えた蔵書の保存は絶対必要なはずである。だとすれば氏が蔵書を捨てる覚悟をしたということは、自分の思考まで手放す覚悟をしたということになる。このことは何を意味するのか、番組では語られていなかったので、私の勝手な想像をすると、その答えは氏がすでに、永遠の中にその答えを見出していたからではないだろうか。
永遠とは何かそれは無であり、その無とは単に物質が存在しない世界のことではなく、すべての現象が一つの情報として存在している世界なのだ。つまり氏が生涯探求してきた時空間的知識や思考は無という形を持たない世界において、情報という姿で永遠に存在していると考えたのではないだろうか。
そして氏が永遠の無に至ることを望めば、意識や個性はその障害になる可能性がある。そのため氏は遺言にまで蔵書や肉体、戒名にまで捨てる決意を記したのだと考えている。
さて、人間の死について見つめることは相対する人生をどのようにとらえ生きるのかという問いに他ならない。私がこのブログに記したことは、死は一つの体験が終わることに他ならない、では体験とは何かそれは肉体という不自由の鎖に繋がれつつも体験の可能性を探ることだ。この体験を望む大いなる意志はより多くの多様な体験を望んでいる。
ところで臨死体験とはこのような世界においてどのような意味を持つのだろうか、立花氏が最後まで死後の世界を肯定できなかったのは、臨死体験の不確かさからだろう。この臨死体験に絶対的な法則が見つかれば、死後の世界は必ず存在すると明言できたはずだ。ところが、実際取材してみるとその現象には必ずというものがない。そのため科学的な解釈をこの世界に当てはめることは出来ないと思われていたのではないだろうか。
このことについて私は、あの世の世界では時空間の制約である因果律に縛られることがない。そのため肉体を離れた意識は、ほとんどの場合、時空間に体験を刻むことが出来ないのだ。つまり存在しているという感覚を維持しながらも、因果律を離れた意識は3次元空間からもその存在を証明することは出来ないからだ。
このような状態で出来ることは、ひたすら物事を願うことぐらいしか出来ないに違いない。そこから言えることは、我々のこの世での目的とは、この世界に我々の肉体を通して体験という情報を刻むことにある。そしてその体験はどのような感情に彩られるのか、喜びか悲しみかその選択はこの世に暮らす我々の選択に任されている。