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2024年 祈りの刻

gallery,ようこそ祈り 世界平和

人は何故祈るのか、これについては、いろんな人がいろんな表現をされているところだと思う。ただ言えることは人はこの世界をどのように捉えているかによってその表現は変わってしまう。

たとえば、古代の人は目の前にある自然の恵みにひたすら感謝をささげてきた、私はそれが祈りの原点だと思っている。しかしながらその自然は、同時に自分の命をも奪うことになるかもしれない。そのためこれを受け入れまいとする考えが起こっても、突拍子の無い考えとも言えないだろう。結局現代における信仰への混乱は、このような自然の循環やそれらがもたらす恵みを否定するところから起こっているのではないだろうか。

ではなぜ現代人は、こうまでも自然の恵みを否定しようとするのか。それは人間は自然の循環から解放しようという思い上がりからではないのか、つまり肉体と魂は一緒のもので肉体が滅びれば、精神や意識も同時に滅び去るという唯物論に帰結する。これに対し古代の人は精神は魂という通常目に見えない世界の存在として認識していた。ではどちらが正しい認識なのだろうか、残念ながら現代の物理学を常識とする我々がその答えを探し当てるのは難しい。というのも現代物理学の導く物質は実存しているという立場からは、魂の世界をいくら覗いても精神や魂は認識することが出来ない。なぜなら時空が存在しているという前提では、魂の世界にたどり着くことは難しいからだ。恐らくそこにたどり着くためには、現代物理学とは別のアプローチが必要になるだろう。

話を戻すと、結局その考えが正しいのかどうかは、その考えが我々の生活にどのような実を結ぶのかを確かめればよい。のんきな言い方に聞こえるが、その結果を知ることはそれほど未来のことではない。今現在でも、大いなる存在を顧みない人々の多く住む街は、今現在どの様なありさまなのかを見ればその答えは明らかになる。結局大いなる存在への祈りこそ、我々に残された最後のよりどころになるに違いない。