G-BN130W2PGN

お問い合わせ先

mail@makotoazuma.com

 

新 思考ラボ

2026年6月24日ようこそ

2026年 6月24日 ゲーデルと達磨大師

昨晩真夜中に目を覚ましたところに、「ゲーデル不完全性定理”真”なのに証明できないってどういうこと?」というややこしそうな見出しの動画が飛び込んできた。これを視れば確実に安眠できると思い込んだ私は、不敬な目的でこの動画を覗いてしまったことを後悔した。この動画は以前もエントロピーの講義を参考にさせてもらった「のもと物理愛」という動画だった。それにしてもこれほどややこしい話を嬉々として講義されるのもと先生の様子は、数学にトラウマを抱える私にとってはサルバドールダリの絵画を眺めるに等しい。

とはいえこの動画を眺めている内、とんでもないイメージが浮かんできた。なんとこのパラドクスの解決のためゲーデルは自分の右腕を切り落とし達磨大師のもとを尋ねていたのだ。ここで達磨大師は、このゲーデルを振り返ると「無」と一喝して、何事も無かったように再び壁に向かって目を閉じた。

ではここで無とは何かという問題になるのだが、この理解こそ私は悟りの世界だと思っている。具体的に無とは、いわゆる空集合や否定要素からなる集合ではなく、集合の概念すら及ばない、すべてを包括した世界のことである。さらにいえば、無とは過去と未来の狭間に存在する今でしかない。そのため無には時空さえ存在しえないのである。そして認識というものはこの無にとっての自己という解釈になる。このことから自己を要素として持たない集合体という概念は無という自己認識の前ではそもそも成立しないことになる。

ところでこのパラドクスは数学的には矛盾となるのかもしれないが、現実世界に存在する量子の世界では重ね合わせの状態が存在し、証明は無理でも現実で起きてしまうという困った状態に追い込まれてしまう。つまりこの世界においては、最後の結果は観測者に委ねられるそうなのだが、観測者とは常に一人称の世界なのである。

ようこそ

Posted by makotoazuma