思考ラボ
2024年 7月23日 磁界とは
世の中不思議なことだらけなのだが、だからと言っていちいち理解していなくても、だまって成るように進んで行ってくれる。その昔電気が導線を通ると、その周りには磁界が出来ると習ったことがある。あるいは、砂鉄を広げた紙の上に磁石を置くと、磁石の先端を輪で囲むような不思議な模様になっていった。その時はあまり興味がなかったので、そういうものだと納得していたが、改めて考えると不思議な現象だと思う。例えばこれを目には見えない電子の流れです、という説明を受けても、ではこの流れを促している力とは何だろうという疑問が湧いてくる。もっと不思議なのは、電子が導線を通ることを電流というのならば、この時導線の周りに必ず出来る磁界とはどんな物質が作用しているものなのか気になってくる。
しかもこの磁界は地球全体を覆うほどの力を持っていて、見えないところで我々を護っているのだという。もっと身近なところで言えば我々が現在高騰に喘ぐ電気エネルギーもすべてこの不思議な作用から生まれて来るのだ。ところで今ここで磁界を取り上げたのは、いままでさんざん勝手な考察を繰り返してきたが、このことがこれまでの考察の肝になると思うからだ、たとえば光と電子には驚くほど似た性質がある、それは両者の空間を伝わるスピードがほぼ同じであり、さらには両者に波の性質が認められることだ。調べてみると光、可視光は波の性質の内、限られた周波数の事を云うそうだ、つまり可視光も電磁波の一種といえば、この考えは頭から間違いとは言えないだろう。
さてそうなると素粒子と言われるフォトンとは何か、しかも質量を持たない粒子とはどのようなことかという問題にぶち当たってしまう。とはいえ電子は素粒子の世界でも最小単位のようなので、この疑問はあってもいいような気がする。
そこでかなり乱暴な理解だが、私は電子が物質の最小単位であるならば、素粒子は電子の持つ特徴の一部ではないかと考えてしまう。つまり電子とは認識のアルゴリズムを現象世界に表現するものだと思っている。例えば熱も電子の1波長から生まれ、電子の動きはすべてこれに変換して認識することが出来る。さらにエネルギーや質量というのも電子の変異を表現するものと考えられるのである。そう考えれば現象の世界を表現しているのはすべて電子が担っていると考えられないだろうか、さらに物質はこの電子と対をなす無という核によって構成されているとすれば、宇宙は縮小に向かうこともなく、拡散により霧散してしまうこともないバランスがとれた状態で存在していくことが出来そうでもある。この場合の無を私は精神世界で言う無意識と同一のものと考えている。つまりここには物質としての形や時空間は存在せず、記憶のみが存在し、無意識はいかなる形態も持たないため、それらは無限大でもあり、そして無限小でもあるということが、同時に存在し得る世界なのだ。このように無はその対極にある電子と一対で存在し、現象世界ではこの単位の結合により様々な元素という物質が表現されていく。これらの元素を小説に例えればそれはまさに物語における言語のようなものである。私が無意識と電子を次いで考えるのは、現象世界が過去の記憶と矛盾しないことから発送したものである。
さて現象世界が、もしこのようであったとすれば、磁界とは何かを改めて考えてみると、私の思う答えはもともと電子に備わっている波の性質が、時空間に表現されたものではないかというものだ。つまり電子が導線を通過した際は、通過する進行方向に向かって波の影響が表現されてしまうのである。この時磁界が回転しているようにみえるのは、電子もまた進行方向に対し回転しながら進む特徴があると思える。もし世界がこのようであったとすれば、世界は電子と無の組み合わせという単純明快な結論を得ることになる。極論すればこのような2進法によって現象は経験として、いずれかの場に情報として記録されているのではないかと考えている。これらのことを整理すると、電子は光の速度に従属し、物質の変化を表現するものである。またそれに伴うエネルギーの量は電子の集束する量によって決まる。