思考ラボ
2024年 7月26日 宇宙人とカルマ
昨日ディスカバリーチャンネルの「モーガンフリーマンが語る宇宙」という番組を視た。正式なテーマは忘れたが宇宙人は神を信じるのかというテーマで早速、ソファーに腰を落ち着けてじっくり視聴するつもりが、うかつにも肝心なところで寝入ってしまった。結局私は、肝心な結論を視聴することが出来なかったのだ。
とはいえ番組ではとても興味深い話題が随所に見られ特に面白かったのが、いくつものメトロノームを使った同調の実験だった。この実験は最初バラバラに動かいしていたメトロノームが、土台の振動に合わせてどんどん調子を合わせ、とうとうすべてのメトロノームが完全に針の動を揃えてしまうという実験だ。この実験では一斉に針が揃いだす臨界点というものがあり、この臨界点を超えてしまうと同調の動きを止めることは出来なくなるそうだ。
この研究者はこの実験に沿って世界各国の宗教と無信教の関係を統計のデータを利用して、その臨界点を探っていた。データでは毎年無信教が増えてその臨界点に近づいているという。だからと言ってこの番組が無信教を煽っているわけではない。番組では宗教の持つ倫理観によって人間社会は秩序を維持し、より高い理想を目指すことが出来るとも語っていた。とはいえ肝心の結論を見逃してしまった私は番組の結論を紹介することは出来ない。
ところで、この研究には日本の事情も間違いなく含まれているだろう。とはいえ日本の宗教事情といえば当然一神教の宗教観とは相いれないものがあり、簡単に比較することは難しい。つまり日本における神々が我々に何々をせよと言われたこともなく、また長い間習合されてきた仏教においても一神教の理解とは距離を置くのだ。
そこで、一神教の解釈を離れ、そもそも何故人間は神の存在を求めるのかに視点を移してみた。番組でも幼児と成人の意識の差を番組冒頭で取り上げ、経験の差が物事の理解に影響すると言っていた。つまりこの問題はそのような根本的なところからの理解が求められる。ところでここから述べることは、ほぼ私感になる。そもそも自我の存在とは自己を保つという意識に他ならなず、そのためには自己が他を圧するということを受け入れなければならないことになる。とはいえこれは肉体あればこその限界であって、意識や無意識の世界にあってはその限界は必要としないだろう。私はこれを宿命、またはカルマと理解しているのだが、他にもカルマは因果律というようにも理解している。つまり現象世界ではすべての事象が絡み合っていて単独で完結する事象は起こりえないのである。
つまり肉体の自己には自己防衛本能という宿命があり、人間の好奇心は常にこの宿命をも乗り越えようとしているようだ。当然ながらそれを可能にしてくれるのは人知を超えた存在しかない、だからこそ私はこの肉体ある限り信仰が必要になるのだと思っている。
さらに我々はこの世に肉体を授かることによって、見たり聞いたり嗅いだり触ったり味わったり、感情による大いなる喜びを見出すことが出来る。その一方で怒り恨み嫉み悲しむということに心奪われることもあるのだ。このすべてが肉体を授かった自己の体験であり、自分以外の個性では体験できないもので、これを例えると唯一無二の宇宙遺産のようなものである。とはいえ確かにどんな思いも大切な遺産になると言えるのだが、どうせなら、私の素直な思いは喜びの体験をしたいという思いに尽きる。私はそれを可能にしてくれるものが信仰と考えているのだ。
ところが、現在も世の中を見ればその信仰が諍いの元のようにも受け止められている。ではそれが本当に正しいのかといえば、この事態をよくよく見てみると、信仰とは相反する勝手な都合が、信仰より優先されているのではないだろうか。これまでも信仰を笠に着た非道は何度も人類の歴史に登場してくるのだ。
ところで私の子供の頃は、この広い宇宙には人知を超えた知性がどこかに存在していると思っていた。さてそんな宇宙人がもし居たとすれば、彼はカルマをどのように捉えるだろうか。私が思うのは、まず彼らが我々のように肉体を持った存在かどうかで、それは決まると思っている。そうだとすれば、やはり肉体に縛られた意識を超越する絶対的な存在が必要になるだろう。つまり私の勝手な結論を言えば肉体を持つ宇宙人が存在した場合、彼らが社会的生活に秩序と理想を求めるならば、彼らもやはり神を必要とする存在なのである。