思考ラボ
シュルレアリスムと絵画
昔、絵描きさんの集まりで、ある人から、それって本来のシュルレアリスムじゃないよね。て投げかけがあって。それまで意気盛んな会合が静まり返ってしまったことがありました。私も、ただ「現実離れした絵」ってくくりじゃダメなのかって心の底で思っていましたが、その時私に同意を求められればすぐに頷いてたと思います。もう20年以上前のできごとなんですが何故か今思い出していました。
例えば印象派がいつ誕生してどのような形で次の時代へ移ったのか、学術的な理解をもってイメージしているかといえば、全くそんなことはありません。私は天才画家の作品を断片的に記憶して理解したつもりになっています。それで、不都合が無かったのでそうしてきました。
さて、問題のシュルレアリスムは、言葉自体がアンドレブルトンによって明確に定義されています。なので、ある作品がシュルレアリスムかどうかは、作者がそのことを意識して制作したかどうかにあります。ただ単に現実離れした作品をシュルレアリスムの作品(シュール)ということは、正確性に欠けるということなのです。でそのことについて私は、言葉使いの問題と割り切っています。私が、どなたかに「どのような絵を描かれているんですか。」と尋ねられると「シュールな絵です。」と答えるとひとまずそれ以上問いかけられることはありません。とても便利な言葉なのです。
ただし、その時代に何故、そのような考え方が起こり共感を得たのかについては、とても関心があります。私のような面倒な性格の人たちが、盛り場で議論を肴にくだを巻いていた時代のことです。ちょうどそのころ、人間の精神について医学的な論文が注目を浴びていました。それ以前、精神とは神の領域で、医学と結びつけて人間が、議論するべき対象ではなかったのだと思います。
さらにそのことを加速させたのは、浮世絵の流行に見るジャポニズムの台頭です。このことは、日本の美意識が海外で好まれただけにとどまらず、その精神世界についてもただならぬ関心を持たれていました。例えば、ゴーギャンやルドンなどモチーフに仏陀を描いていますので、好奇心の活発な知識階級にはかなり浸透していたはずです。なので唯識、阿頼耶識の理解から無意識の理解が深まっていると考えるのも、穿った考えではないと思います。
例えばシュルレアリスムを代表する天才サルバドールダリの作品で、ハイヒールを模した帽子があります。これは達磨大師が武帝に謁見した際の逸話を起草させます。つまり、ダリも禅を理解し、作品の制作にあたっていたのではないかと推察されます。
では、シュルレアリスムと禅の思想が出会うとどのようなことが起こるのか、それは、無意識の理解です。フロイト、ユングの考える無意識と東洋の阿頼耶識が統合されましたということです。
そのことを表現するために、無意識での表現が模索されました。
無意識表現の試みとして大きく2つに分けて考えられます。一つは描くこと表現方法での試み、もう一つはモチーフでの試みです。私たちの普段よく使うシュールは、このモチーフが現実にとらわれない超現実を表現する試みです。つまりシュルレアリスム運動の一部をもってシュールといわれています。ほんとはもっと、なぜならばが続くのですが、何を言わんとしていたのか、ぼんやりしてきたのでここで締めます。ほんとにこれ読む人いるんですかね、失礼ですがお顔を見たいもんです。こりずにまたいらしてください。