思考ラボ
愛ってなに?
愛について思っていたこと
突然ですが、私は愛という言葉について何かしらの違和感を感じていました。簡単に言えば「好き」という言葉と「愛してる」の違いがよくわからないんです。もっと先の無償の愛などは別の相応しい言葉があるのではと思うくらいです。そんなわけで、妻はいまだ私から「愛している」という言葉は聞いていないはずなんですが、いつだったか私が「一生愛する」みたいなプロポーズしたと言っていたので、それは妄想か勘違いだと否定しておきました。何故なら当初から愛という言葉が納得できないために「愛するということは言えないが、好きだということは言える。」と伝えたはずなのです。こんなことをいうと私の人間性を疑われるような話ですが、嘘偽りのない思いです。それほど私にとって言葉は重いものなんです。
さて、この愛という言葉についてとうとうある確信を持つことが出たので、この場でご披露させていただこうと朝からテンションが上がっていました。
実は以前にもこの「愛」についての考えを記事に載せたことがありました。それは「突然の啓示」にのせた記事なんですが、そこでは、お互いの望み(願い)の共有を「愛」と定義すると書きました。ということは相手の願いが伝わらない限り愛は成立しなということになってしまいます。それでは、無償の愛など成立できなくなります。
【愛の定義】
私は、愛を相対的なものと考えています。なぜなら、結果がどうあろうと相手が望まないことは単なる思いの押し付けに過ぎないと思うからです。相手が受け入れるプロセスがあって愛は成立する。もしそうであるならば、2つの状態を設定して理解する必要があるのではないでしょうか。まずは、始まりの状態、希望すること、願がうこと。例えば「相手と共に時間を共有したい」「相手を安心させてあげたい」という希望、人類の平和や繁栄などを願っている状態などです。そして次に必要な状態が「感謝」です。それは、。それは願いや希望にたいする受け入れを意味します。私は、この2つの状態が成立してはじめて「愛」が成り立つと考えました。
愛という言葉の使い方
以上のことを受け入れると、愛という言葉の使い方が変わります。どう変わるかというと愛については能動的な使い方がなくなるのです。つまり、愛するではなく、願いに気づいて感謝することが愛なので、「愛になりました」相手に臨む場合は「愛にならせてください」ようするに、相手の願いを感謝で受け入れた状態はつねに受動的な立場です。「愛してるかーい」という使い方ではなく「愛になりたいかーい?」阿弥陀様の願いも感謝をもって受け入れて初めて愛になります。でもこれってコンサートなんかで使うとちょっと沈黙がありそうです。