思考ラボ
人は何故、人生の目的を探るのか
それは、正しい生き方を探るためでしょうか、「こう生きるべき、こうあるべき」哲学者は、生き物の中で人間を特別な存在と捉え、そのことを文字で表現することに人生を捧げます。ところが文字の表現というのは、自ずと限界があって、文字は概念の世界を超えることが出来ません。そしてこの概念こそ文字表現の世界つまり哲学の行き詰まりを生みます。例えば無限大や無限小、コインの裏表、概念としては理解できますが、実態を示せとなるといきなり困難になります。
このように概念は思考の中で完結できても、現象世界との整合性を考えると今のところ簡単に破綻してしまいます。私がここで何を言いたかったのかといえば、思考によって人生の目的を表現することは根本的に困難だということです。
さて、このような前置きをしておきながら、タイトルの人は何故人生の目的を探るのかです。理由は2つほど考えられます。一つは他の生き物との違いを厳格化して人間を特別な存在として認識したいという思いです。この願いは一神教の世界によく表れていると思います。簡単に言えば食物連鎖からの逃避行為ではないでしょうか、野生の世界では、命を繋ぐための情け容赦のない死闘が常に繰り広げられています。自然を受け入れるということはどうしてもここと向き合わされます。一神教ではこのような不条理は許されません。そのため神の叡智によって正されます。
人類はこの叡智の世界を具現化するため、野生の生き物を従える必要があるという教えです。つまり、人類は神の叡智を具現化するための道具である。という考えから我々人類は神の道具として正しく生きることが求められます。
ではもう一つのアプローチですが、起こっている現象にフォーカスして現象がなぜ起こるのか仕組みを理解することにより、その背後にある何らかの意思を捉えようとする試みです。
科学的アプローチといって良いのだと思いますが、以前は歴史的に始まって間もないアプローチのためその限界も知れていました。
このアプローチでは観測というものが大変重要になります。我々人類は現象がなぜ起こっているのか、仮説を立てその仮説を観測をもって実証することにより理解を得ることが出来ます。
ところが、このような仮説の中に、我々が認識する3次元世界は、2次元世界のフォログラムではないかという考え方が有ります。計算上はそうなのだという意見が多いそうです。もしこのことが真実だとすると、時の流れは存在できなくなります。繰り返しになりますが、時が連続して経過するという捉え方が間違えであれば、あれがこうしてこうなったという物語は、存在していない。あえて言うなら人間の頭の中で起こっているストーリーと言えます。
もしこのような考え方が真実であるなら、私たち人類は頭の中でストーリーをせっせと紡ぐみ出す糸車のような存在ではないでしょうか、糸車にとって良い糸、悪い糸があるとすれば、良い糸とは糸車が軽快に回り続けることのできる切れない糸のことでしょうか。
糸車に求められることとは、糸をひたすら紡ぐことです。しかも、切れずに丈夫な長い糸です。