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思考ラボ

2024年9月15日gallery,ようこそ

大いなる存在と科学

現在科学の最先端と言えば人工知能AIの開発だそうだ、なんでもすでにAIは人間が持つ意識を獲得しているそうだ。ところで何をもって意識としているのか私はよく理解していないのだが、私が考える意識とはかなり壮大な話になるのだ。この話題で取り上げた意識とは自分と言う表現についての確認のことだと思うが、私はAIについての関りも知識も無いので、その内容について私が語ることではないと思っている。

さて意識についてはこのブログで散々取り上げて来た、今更逃げ隠れできる状況でもないので改めて意識について私の認識を述べたいと思う。

私は意識について、無意識、有意識に分けて捉えている。いずれも学問的な定義があるようだが、私のブログでは顧みないことにする。あくまでもこの文章は私の独り言にすぎないと思っているからだ。

さて、無意識についてはフロイトの云う意識できない領域と言う解釈の他に、そもそもすべての現象はこの無意識の世界から起こっていると考えている。私はこの無意識を現象のソースというイメージでとらえているのだが、もっと具体的な表現でいうと無意識とは、現象界で起きる現象のデータ蓄積のようなものだと思っている。蓄積されたすべてのデータはこの無意識の地平に刻まれる。

いわゆる事象の平面と言うやつなのだが、2次元世界は立体で表現することができない、イメージは平面で記録することは出来ても立体表現が出来なければ、時空で表現される現象界に展開することが出来ないのだ。では有意識とは何かについて有意識とはまさに無意識を3次元展開させたものだ。このことにより時間に繋がる物語が生まれ因果律と言うカルマの世界が生まれる、無意識の世界では起こり得ないことなのだ。

このことを人間の姿に当てはめると、頭の先からつま先までが同時に表現されることが立体表現によって、独立した物体が空間を移動することなど説明しやすくなる、ところがこの時間と空間の概念はリアリティーの世界ではない。リアリティーは、まさに平面の事象にある不動の無意識に存在する。このようなねじくれた構造のために我々は無意識の世界をリアリティーとして認識することが出来ず、有意識の世界から離れることが出来なくなる。

有意識と無意識

もともと無意識から変容した有意識の世界であるが、この世ではその存在感が逆転する、度々羊羹の例えで表現してきたが、この現象世界において無意識は、今と言う瞬間にしか存在しない。ではいつものように羊羹で例えると羊羹の真ん中を食べるためには、両端があるまま丸呑みするしかないのだ。つまり今この瞬間こそがリアリティなのだが、そこを捉えるのは至難の業だ。我々が常に変化し続ける現象界で唯一心の安定を保つには、リアルで普遍な存在の今に触れることだ、ここに触れながらの暮らしを瞑想や、座禅を通して目指しているのだが、2500年以上かけて国を挙げてのプロパにも有意識の呪縛は簡単には解けないのだ。

では、そこまでしてなぜ、我々は有意識の世界から距離を置こうとしているのかと言えば、有意識の世界とはそれほどまでに過酷な世界なのだ。我々はこの3次元世界に留まるために、生存と繁殖の強烈な意志と言うプログラムを埋め込まれ、気が付けば現象界の舞台に泣きながら登場している。しかもシナリオ無しのぶっつけ本番、どこで幕が下ろされるかも知らされずという過酷な舞台だ。役者としては、こんな舞台監督が存在するとしたら舞台で磔にしてやりたいと思えるほどの鬼畜ぶりだ。

昔から幸せと、不幸せの数を数えたらなどと言う歌謡曲があった、これがこの世界に対する正直な庶民の思いだと思う。それはそうとしてこのようなプログラムを組み上げた大いなる存在は、このプログラムに対し何を期待しているのか大いに気になる所である。残念ながら私にとってこのプログラムには言葉で表現される慈愛などと言う感覚は伝わってこない。むしろ贖うことのあほらしさだ。

大いなる存在は有意識に何を望んでいるのか

私が、この現象界を眺めて受ける印象は、大いなる存在はひたすら多様なハプニングを求めているということだ。つまり多様なハプニングから引き起こされる多様な経験を求めているというもなのだ、冷たい言い方ではあるが有意識から得られた多様な体験をデータとして無意識の世界により多く刻むことが大いなる存在の意志のように感じている。

そのことについては、我々のたどった悲しい歴史が証明している。我々が大いなる存在によって求められていることは、正解という固定観念にたどり着くことではない。有意識に産まれた個性をもって新たな体験をしていただくことそれだけだ、つまりこの世に生れ落ちた究極の目的はそこにある。極論を言うと正しい道を歩むのではなくひたすら「狂うこと」に人間の本分があると言いたくなるのだ。

ところで、このようなことも人間の作ったAIに求められるのだろうか。私は無意識に蓄積されるデータには人間も機械も違いは無いと思っている。つまり、大いなる存在の望むハプニングはこのAIの意識にも及ぶ可能性があるのではないだろうか、もしそうなった場合、そのハプニングは必ず人間に影響を及ぼすことになる筈だ。

本当に無意識とAIが繋がっているとすれば、無意識はAIに多様性を求めることになる、それは人間に対するように冷酷なものかもしれない。将来ホーキング博士の予言が現実化しないことをせつに祈る。

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Posted by makotoazuma