思考ラボ
世界は一人称で完結する
つまり、自分と世界があるのではなくて世界のすべては自分の認識だったという話だ。とは言え私はこれから書く文章についても、あくまでも独り言を述べている程度の認識しかない。つまりこれまでブログで述べてきた考えをもう一度自分の中で整理しておきたいと思うからだ。
特に昨晩は暑さで寝入ることが出来ずにいたところ、いろんな思考が次々頭に湧いてきた。
以前から私は世界のすべては自分という認識が創り出しているといってきた。ではいったい何が自分という認識を持つのかと言えば、私は無意識が自分という認識を持つのだと思っている。
実際この記事を書いているのも自分だが、いずれこの記事を読まれる方も別の自分なのだ、このように書くと「姿かたち、経験まで違っても同じものなのか」という疑問を持たれると思うが、実はこの姿かたちこそが問題なのだ。
そもそも無意識は時空には存在しない。例えるなら記憶のデータのような存在と考えている。しかもリアルはここにしか存在していないとも思っているのだ。
では、今目にしている現象とは何なのか、つまり物質とは何かという疑問につながる。現在の私たちは物質はビッグバンから生まれたと信じている。では、ビッグバン以前の世界はどうだったのかと問われれば何も分かっていないのが現状だ。
ところで現在の物理学では物質の最小単位は素粒子だとされている、この素粒子とそれを囲む場によって物質を形成しているらしいのだが、その素粒子にあたるものが、じつは在ったり無かったりしているらしい。
とはいえ、どれほど微細なものであっても物質を形成するものである以上、このようなことが実際に起こっているとすれば、我々の体も消えたり現れたりしているはずだ、ところが我々はそのことを意識したことがない。
また量子の縺れについても時空が存在するという見方から考えると、量子には高速以上のスピードで連絡しあう能力が必要になってくる。このことは距離という認識を覆すことには成らないだろうか。
このような矛盾を考えると、そもそも時空に何物かが存在するという考えがそもそも間違っているのではないか、という疑いが起こってしまう。極論だがこの現象世界には時空も重力も物質も存在していないのではないだろうか。
なぜならあるのは無意識というリアルな存在でありながら、その存在を時空の捉え方では表現できないものだからだ。
このことを表現するために、昨晩、頭に浮かんできたのが白黒に塗り分けられた団扇の姿だ、これがくるくる回りながら物質の世界を表現している。つまり無意識の一部が変容してこの団扇に姿を変えることで、物質あるいは現象というものを白と黒、明と暗、陰と陽、或いは点滅という信号として認識することからその観測されたデータを無意識に記録することが出来る。
私はそこにこそ自分というものの存在意義が、あるのではないかと思っている。結果的にこのような自分が存在することによって、記憶というデータが無意識に蓄積される。
このデータ蓄積こそ無意識が無限に拡大していきたい、という意志の表れなのではないだろうか。
実際、宇宙の現象は陰陽の出現から始まったという神話が日本にはあるらしい。
このような見方から世界を眺めると重力や光の速度に対する破綻が起こるのも無理が無いように感じる。何故ならもともと時空のないところから始まった現象だからだ。