新 思考ラボ
2026年 1月20日 中道を考える

中道という言葉をネット検索すると、大概ヘーゲルの弁証法というものがヒットする。いわゆるアウフヘーベンというドイツ語なのだが、要するに2つの対立する命題があれば、そのいずれかを選択するのではなく、より良い第3の解を求めることらしい。これを人体に例えると右足と左足とは違う第3の足を模索することなのか。譬えが下ネタっぽくなってきたので、譬えを戦争について考えると戦争すべきという考えと戦争はすべきでないという対立があった場合。話し合いでの解決、或いはそれ以外の選択により決着を図る事になる。とはいえこれは頭の中でこのような試みは可能でも、そもそも戦争は話し合いの解決が見込めない場合の最終手段なのである。つまり戦争が目の前に迫っている場合には手遅れである。因みに現実の世界では問題の棚上げや先送りという方法も第3の選択肢として使われている。つまりいづれ時間が解決してくれるだろうというものだ。
ところがこの選択肢は現実世界において物の解決に至らない場合が多い。例えば朝鮮半島にある38度線といえば、1950年に勃発した朝鮮戦争での停戦ラインのことであり、あれから76年が過ぎているにも拘らず状況はまるで変らない。しかもこの戦争の最中に、韓国軍は勝手に日本の竹島を占領してしまったのであるがこれも棚上げである。つまり問題の棚上げや先送りは問題解決のより良い選択肢というよりは後世につけを残したに過ぎないのである。
さてそもそも仏教で用いられる中道という言葉をネット検索してみると、中道には仏教の核心というべき意味があった。この例に用いられていたのは、お釈迦さまが悟りに至るときの教えがある。そこでは悟りは苦行に身を置くことでも快楽に溺れることでもないという。つまりこのどちらの極端も否定するところが悟りの境地なのだという。ではこれを実際の生活に取り入れることは可能だろうか、出来なくはないが、お釈迦様のおられた時もこれを成すためには、出家して世間とは距離を置く集団生活を勧められている。
要するにこれを突き詰めていくと、すべての判断を手放すという境地にまで行着かなければ悟りの世界は見えてこないのだろう。これに比べ民主主義における国会などは、遥かに下世話なものである。まるで博徒の集う鉄火場のようなもので、結局、国政と言っても賛同票の多いか少ないかの差でしかなく、要するにここに有るのは物の本質ではなく欲望の集積でしかないのである。その証拠に政治家の発言をみれば欲望の炎が常に揺れているように、その動きが定まることはないのである。このような処に人生のあるべき姿を求めることは、仏法の本質に繋がっているのだろうか。その答えは中道という言葉が教えてくれる。中道とは決して動くことのない物事の核心の事であり、単純に異なる意見の真ん中という意味ではないのである。