思考ラボ
命は確率から創造されるのか?
あるいは現象は確率の数だけ発生するので、生命の誕生もまた確率の結果であるという考えだ。現在の科学ではこの考え方が考察の基礎になっている。その考え方を示す例としてサルがベートーベンのピアノソナタを演奏する確率という考察がある。それは、10の何乗分の1の確立といわれるが、今の私は、いつまで観察してもその可能性はないのではないかと思うようになってきた。
なぜなら、この様な確率で何ものかが出来上がるためには、望む結果が得られるまで、常に同じ条件が整っていなければならない、ところが分子が、常に一定条件で存在するというのは、きわめてまれなはずで、現実の世界においてサイコロを振った場合に、均等な確率で事象が発生することは期待しずらいのではないだろうか。
つまり事象は不均衡な条件によって、必ず起りやすさという方向が決まってくるのではないだろうか、そうだとすれば、分子が無秩序に拡散しようとしても、なぜか秩序のある動きを見せてくるのではないかと思われる。
私は、この現象を無意識が持つ意志と定義している。その意志とは無意識から個性というものを形作り、体験というストーリーの集積を目指すものだ。このことからも我々が必然的にストーリーの展開を望む存在であることが言える。
ところで、私が何故このような投稿をしようと思ったのかにつては、今朝ほど地球環境に関するTV番組を見たからだ、番組では現在の生態系は環境の急激な変化によって荒廃が進んでいるのではないかという内容だった。また生態系の緻密な連携についても詳しく紹介されていた。森がキノコなどの真菌類などの繋がりによって、森自体が動物の神経系のような繋がりを持っているとか、植物と昆虫、哺乳類を含め、生存するために密接に支えあう姿が紹介されていた。
とはいえ、動植物の世界は与え合う一方の世界ではない、食べたり食べられたり、騙したり騙されたり、そんな、過酷ともいえる世界の中で命は輝いている。
番組の中で特に私が興味深く思ったのは、それぞれの植物、昆虫は無意識の中で、宿命的に依存しあう存在として生態系にかかわっているということだ。番組ではハンマーオーキッドと蜂の関係が紹介されていた。ハンマーオーキッドという植物は一般的な蜜を媒介して受粉するのではなく、極めて特殊な生態を持つ蜂を介して受粉を成功させている。どのような蜂かといえば、コツ蜂というメスが羽をもたないオス蜂とは全く姿かたちの違う蜂なのだ。
つまりハンマーオーキッドが生存するためには、必ずこのコツ蜂が存在していなくてはならない。このようなことを単純な確率論で説明することが可能なのだろうかということなのだ。このことを説明するために無秩序な突然変異による説明では説明が難しいのではないかという思いになる。おそらくこの確率論でハンマーオーキッドの発生を実現させるためには、地球が誕生した時間だけでは収まらないのではないかと思われる。
やはり、このような奇跡的な生命の誕生を説明するためには、無秩序に事象は展開しているという説明には限界を感じる。おそらくは何らかの方向性が関与しない限り生物の進化の在り方は説明が難しいのではないかと考えている。
私はそのことを事象が拡大拡散しようとする意志という方向性が存在しているのではないかと考えている。前回の熱力学をもとにしたエントロピーの矢印とは考えが矛盾するかもしれないが、整理すると意志による方向性とは、個性の形成と、その個性がより多くの体験を蓄積するための生存時間を支える必要がある。
私はこのような意志が現象の世界を創造しているのだと思っている。つまり我々が現象世界で受けた命は、より多くのストーリーを体験するために、より多くの時間存在することを望まれている。そのために必要になるのが、生き残り戦略というものだ。例えば自分より圧倒的に多くの蜜を昆虫に提供できる植物の生息しているところで、自己の生存を望むとすれば蜜以外の魅力で勝る必要がある。このような観点で観察するとハンマーオーキッドの狙いは特殊な生態を持つ特殊な蜂で、ハンマーオーキッドはそこにある特殊な環境での生存を目指しているのだ。
なんだか商業的な販売戦略にも通じそうな話で、現実的な示唆に富んでいる。では、その植物が意識的にそのような戦略を用いているのかといえば、そうとも考えずらい。傍目に見れば、この植物もただひたすら懸命に生きているということだけだと思う。
つまり、確率論のみで生物の進化を説明するのは難しいのではないだろうか、現象が起こるためには何らかの方向性が必要になるのではないだろうか。つまり進化論という考え方もなぜ環境変化が起こるのか、ということも含め理解が必要になる。そのことは環境はなぜ変化して生物はなぜそれに合わせた変化をしなければならないのか、そもそも生命が生まれた意味とは何なのかということだ。
ここまで風呂敷を広げてしまうと、これまで述べた大いなる意志とは、ひょっとすると有機的生命という概念をも超えているのではないだろうか、という思いにもなる。
結局大いなる存在はどこまで行っても悩ましい存在だ、それはまるでラッキョウの皮をむくようだ。