思考ラボ
成功は失敗の元?
初めて聞いた言葉と思われた方、私も今初めてお目にかかる言葉です。エジソンは失敗は成功の母とおっしゃったそうですが、その言葉を聞くと失敗して悩む人は勇気を持つことができます。
ところが、成功は失敗の元と言ってしまえば、その言葉は誰にあてた言葉なのか、だれが利する言葉なのかということになります。確かに成功は次に起こる失敗の原因になってしまうことも事実でしょうが、この言葉に私は共感が持てません。それでもあえて使うとすればこの言葉によって、成功に浮足立つ人を諫める効果はあるかもしれません。とは言え表現としては陳腐なものです。何を言いたいかといえば、言葉は何を伝えたいかが重要で、もともとの現象には両方の意味が備わっているということなのだと思います。
ところで巷で囁かれる、現象はすでに決定づけられたものだという話には疑問が残ります。そのように思う私も実際、因縁めいた体験があります。そこからこの世の中を見ると、この世で起こることはあらかじめ決まっているのではないか、と思ってしまいます。
確かに観測点を起点に事象をさかのぼれば、奇跡とも思われるような偶然が繋がって結果が導かれているように感じます。では物事があらかじめ決まっているのだとすれば、なぜ新たな現象というものは、起こってくるのでしょうか。そんな疑問を最近特に、強く感じるようになってきました。この考えを発展させるとパラレルワールドという考えにも行き着くのだと思いますが、話がとんでもない方向に向かいそうなので慌てて戻します。
それでは私の現在の認識ですが、現象は起るまで何も決まっていないのではないかということです。つまり現象はあらゆる可能性を含んではいても、結果は観測されるまで決まらないということです。では、これまで述べてきた無意識は、すべてを内包するということと矛盾しないのかということになります。
そこで、無意識というものを昔し公園にあった砂場にたとえて考えてみました。砂場にはコンクリートのプールにぎっしり砂が引き詰められています。公園に遊びに来た子供たちは、その砂を掘ったり山を作ったり、思い思いの遊びをして楽しみます。私の年代の人には公園の砂場を説明しなければならない世の中が来るとは想像もできないことですが、今思えば確かに不衛生極まりない遊びです、そんな昔しの子供は犬猫に負けないくらい泥だらけの存在でした。
横道にそれましたが、砂場の砂は子供が出ていけば、また元の砂に戻ってしまいます、その姿はひっそりとして静かです。ところが、子供たちが再び訪れると途端にへこんだり盛り上がったり、あたりに巻き散らかされたりと大変な騒ぎになります。
では、この大騒ぎは無意味だったのかといえば、そこには子供たちの思いや経験がしっかり残ったはずです。とはいえ、現実でこんなことは振り返られることはありません、思いや体験は跡形もなくその場で消えてしまいます。でも公園の砂場は、こんな子供の様々な思いが起こることを前提に作られています、決して静かな砂場を願って出来たものではありません。溌溂とした子供たちの思いが表現されることを願って造られたものなのです。
結局、何の結果も生まない遊びの世界ですが、そこには成功も失敗も初めから期待していません。砂場に望むのは子供たちが楽しく遊んでいる姿です。