思考ラボ
情報に大きさはあるのか
私たちが触れる最もポピュラーな情報といえば、ほんの少し前は書籍の活字だった。今ではパソコンの普及で完全に電子情報が主体となっている。ではこの情報量を物理的に表現するとどうなるのか、太古の人間は文字を岩や石板に刻んでいたが、岩の大きさを情報量の大きさとは言わない。情報量は記録媒体の技術的進歩につれ増大しているが、そもそも体積や質量をもった物理的存在ではない。ちなみに記録媒体における昨今の技術的進歩は驚異的で、その主流となる次世代コンピューターは量子力学を応用したものになるらしい。
ところがこの技術に応用される量子力学は、いままで私たちが常識だと思っていた物の見方を根底からひっくり返そうとしている。それはこれまでの物理の常識では、私たちの認識や意識にかかわらず物事は存在しているとした見方だったが、一方の量子力学では私たちの意志や認識しだいで物事の結果が変わってしまうらしいのだ。つまり物質の存在も私たちの観測行為があって初めて決定されるらしい。
ではこれまでの物理学的な認識とはどのようなものだったのか、それは目に見えている現象をどのように理解するかという学問だ。そのためには現象の再現やそれに則した結果の確認が求められる。基本的には物質とは何かということを、物質を極限まで細分化してその本質に迫るアプローチと時空間における物質の運動に対するアプローチだ。その大いなる助けとなったのが数学的な理解で、物理学はこれまでミクロ世界からマクロ世界までの一貫した理解の及ぶ世界を目指したが、科学の歴史の中では何度か大きな壁にぶち当たってきたそうだ。
例えば、光の二重スリットの実験では観察者の状況によって結果が変わることが確認された、これはいったいどのようなことを私たちに示しているのだろうか、この実験の結果から光は粒子と波の性質を併せ持つということが導かれた、この結果に注目するとそれぞれの結果は、観測者がなにを観察しようとするのかで結果が分かれたということではないだろうか。
このようなことから私は、物質が存在する現象世界は、認識という行為に備わっているアルゴリズムによって表現されているのではないかと思うようになった。つまり二重スリットの実験によって示されたのは、光の持っている性質ではなく私たちの認識がもつアルゴリズムの回答ではないかというものだ。たとえば、私たちがこの世界を3Dの世界であるように感じているのは光を波として認識するためのアルゴリズムがあるのではないかという認識だ。また光を別の観点、つまり光の存在を座標として観察しようとすれば、光を受けるスクリーンには粒子のように反映される。このことは私たちがどの観測結果を望んでいるかを、私たちの認識は判断し必要なアルゴリズムを選択しているのではないかというものだ。
もし認識というものが現象を決めているとすれば、光が振動しながら絶対スピードを保つことができるということはなんとも不思議なことだジグザグ運動を繰り返しながらどの波長も同じスピードで進む、しかもある時は光が遠ざかるときは、その振動の幅も伸びるらしいのだ。もっと不思議なことは、光の粒子が干渉波を創るとはどういうことなのか、一般的に波とは、物質同士がぶつかり合うことによってできる現象のはずだ。実験では単体の光子でも干渉波が観測されるそうだが、これでは実体のないものが複数スクリーンに映しだされたということになる。
これではこれまでの常識というものにも常に懐疑的にならざるを得ない。このような物理学の壁について私が思うのは人類は必要な環境に応じた範囲で必要な理解を得ていたということだ。アルキメデスの時代はその環境に応じた理解、ニュートンやアインシュタインも時代に応じて人類が必要とした理解を手に入れることができたのではないか。さてボーアの時代といわれる現代は、この不思議な量子力学という発見の時代になるが、この発見の特徴的なことは、今まで反目しあっていた科学と精神世界が限りなく近づいてきたということではないだろうか、この時代にあって科学は精神的な叡智と融合し真実の地平に達しようとしている。