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思考ラボ

2024年9月15日gallery,ようこそ

思考のまとめ③ 世界は相対的である

アルバートアインシュタイン | CROWN CREATIVE

と言っても数式を見るだけで危険なアレルギー反応を起こしてしまう人間の文章である。分をわきまえろと叱られそうだが、人間として生まれた以上なぜ自分が存在するのかという疑問は、誰でも潜在的に持っているものではないだろうか、そうであれば自分がこの世に生を受けたものとして思いにふけることはごく自然なことなのである。

私たちは物心がつくと義務教育という場によって、子供のころから知的好奇心に対して様々な足かせをはめられてきた。そこでは一方的にに供給される情報に対し従属的に反応することを求められる。ところが、このような流れに足並みの揃えられない個性は知的興味に対し不適合の烙印を押されてしまうのだ。このような世の中はクイズ王を知性だと勘違いさせる刷り込みになるのではないだろうか、今の世の中が立派な知性が表現されている世界とは思えないのだ。

最初からテーマからずれてしまったが、世界は相対的であるという言葉から、すぐに連想されるのは、アインシュタインの一般相対性理論だと思う。ところが先ほど述べた通りで私はこの理論について述べる知識はないないのである。とは言えこの言葉が以前述べた「世界は一人称で完結する」という思いつきに繋がっている。

この相対的であるという言葉は、対象がどう見えるかは観察者の置かれた環境によって決定されるということだ。例えば光速に近い動きをする対象も、観察者が同じスピードで同じ方向に進んでいれば対象は止まって見える。イメージを膨らませると静かに座禅を組んでいる人が一緒に座禅を組んでいる人を見ても、相手は微動だにしてないと思い込んでしまう、ところがこの二人を地球の外から観察すると、この二人は時速11万kmの猛スピードで宇宙空間をぶっ飛ばしているのだ。ところがこれもまた太陽系だけの出来事を観察をした場合で、太陽系はさらに巨大な銀河系に位置していて、この銀河もまた途方もない大きさで宇宙に渦巻いているそうだ。

このようなことを考えていくと、やはり宇宙の在り様は観測者が決めているとしか考えられないのである。

私はこのような視点から、目の前におこる現象を眺めると人類が獲得した物理学とは別の視点が宇宙に存在するのではないかと思えるのだ。私はこれまで様々なことを言いきってきた。中でもかなり極端なところでは物質は存在していない、物質は認識のアルゴリズムだという暴言ともとられかねないことを書いたことがある。物理学で考えられる物質の概念は人間の認識に関わらず物質は存在しているというものだ。ところがこんな当たり前のことに疑問を持つというのはかなり危険な考え方かも知れない。

とは言え物理学の世界は、量子の世界を前に新しい展開が望まれているようだ。これまでの物理学は原子の世界を表現するまで順調に成果を積み上げてきた、おかげで途方もない距離を人間の打ち上げた探査機は旅して成果を持ち帰るという奇跡を人類にもたらした。ところが原子のさらにその先の世界を探ろうとした人類の叡智は、これまで数式と奇麗な整合性を保ってきた現象世界は、演劇の場面展開のように、いきなり素粒子という迷宮の世界に豹変してしまった。

その先鋒になったのが光の怪しい挙動だ、光は粒子であり、同時に波の性質を持つという、これまでの粒子としての視点では全く相反する性質が同時に備わっていることが確認されてしまった。しかもその挙動は観測者の意志によって表情を変えてしまうという予想のつかない現象なのだ。つまり観測される現象は粒子の挙動だけでは説明がつかず、これらの現象を従来の物理学で捉えるため大変な考察や実験が試みられてきたが、その試みの一環として粒子を紐のように連続した物質と解釈する理論が考え出された、確かに計算上では説明がつくのかもしれないが、あくまでも理論の世界で我々が小さな紐の姿を肉眼でとらえることはない。

なぜならそこが光で表現されるステージの限界であるからだ。つまり原子までは物質の姿として写真におさめることはできても、さらに小さい電子の姿は雲のようにしか写らない、ということは電子はミクロにおける現象世界の境界で一方マクロの境界がブラックフォールなのではないだろうか。

では、物質は存在しないのであれば我々は、何をもって物質は存在していると錯覚するのであろうか、私が思うのは無意識とはこれまで起こった現象すべての記憶であり情報である、又対する現象や物質とは情報の変容でしかない。つまり物質が存在するという錯覚はこれまで刻まれた記憶の地平に表現された光のステージなのだ。このことにより我々の認識する様々な個性は常に同じ情報を共有しているため単一の現象世界を共有することになるのだ。

結論として我々の個性はこの情報の境界線上に存在し、新しい情報の創造を行っている。

気が付いたらかなり長い文章になってしまった。単なる思い付を述べただけだがお付き合い頂たことに感謝します。

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Posted by makotoazuma