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思考ラボ

2024年11月17日gallery,ようこそ

命について

師走に投稿できるようなテーマではないのだが、思いついたので記述しておこうと思う。私はこれまで人生についてはアイコンではないかなど様々な思いを綴ってきたが、間違いと気づけば、いつでも訂正しようという気構えでいる。そう思いながらも今日は1人称の視点ではなく、もっと一般的な視点で物事を考えようと思っている。

そこで、これには補強が必要だと思う投稿に気が付いた。それは時の流れに身を任せるという言葉だ。ここに来てゆく川の流れにただ身を任せることが、本当に生きるということなのだろうかと、師走の買い出しだ、何だと世間が忙しい時にも関わらずひたすら思いにふけっている自分がここにいる。

脱線しないうちに結論を先に述べると「命は変化するために生まれた」という言葉が頭に浮かんできた。確かに我々の命は、生まれ落ちたときの環境や備わった資質など全く違うものなのだが、いずれの命も受け取ったものを変化させるという潜在的な使命を携えているのではないかと思っているのだ。

この使命はウイルスであっても変わらない、命全体の命題だ。つまり命はそれぞれが受け取った環境と認識の中で変化を促すことによって命を全うするのだと思っている。別の言い方をすれば、生命にとって変化以外の目的はないともいえる、人間の意識する正義も成功も生命本来の目的とは違うものなのだ。このような言い方をしてしまうと、厳格な技能の伝承を旨とする伝統芸や様々な芸能文化に携わる人からお叱りを受けるかもしれない、とは云えそのような道の先端をゆく方には時流に合わせることの重要性は、当たり前のこととして受け取られているはずなのだ。おそらく室町時代以降にはその様な意識が広がりを見せている。

このテーマは、猿楽の開祖世阿弥の言葉でもあるようだが、このブログで取り上げる奥の細道の著者松尾芭蕉も、俳諧の流派である蕉風の最も重要なテーマとして取り上げている。それは不易流行という言葉で表現されている、本質的で不動な世界と生々流転する創造的な世界の融合を、たった17音の詩で表現することだった。

時の流れに任せるとは、ただ無抵抗のまま時の流れに流されてしまうのではなく、流れの中にありながら、自分が望む形に自分の意志をもって自分を変化させることなのではないかと思っている。

言い換えれば、ただ流れに身を任せるのではなく「流れの波を乗りこなせ」という言葉が頭に浮かんで来るのである。真冬にも関わらず、波の音とテケテケサウンドが聞こえてきそうだ。

gallery,ようこそ

Posted by makotoazuma