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思考ラボ

2024年11月17日gallery,ようこそ

ヒロイズムとニヒリズム

この投稿を思いついたのは今年の元旦に視た、永遠の0という映画の1シーンにある。その中で主人公が昔の仲間と合コンの場面で主人公の取り組みに対し、昔の仲間から「それはヒロイズムではないか」と揶揄されたシーンに私は思うところがあったからだ。映画での主人公は、この月並みな言葉に論理的な反論が出来ずレストランの中で場違いな怒号を上げてしまう。私はこのシーンにこそ作家の伝えたいメッセージがあったのではないかと思っているのだ。

ちなみにこの時主人公は「そんなんじゃない」と声を荒げてしまうが、私は、主人公には悪いが、それがこの問題の本質だと思ってしまったのだ。

もう少し詳しく説明すると、映画では主人公の祖父が特攻という非人道的な軍事作戦に、対し抵抗し続けていながらも結果的には自分自ら特攻に志願し特攻に及んでしまった。この矛盾を何故という現代の視点で孫である主人公は祖父の足跡をたどり、この問題に迫るという内容だ。

そこで私が思ったことは、戦争はヒロイズムから起こっているということだ。ではそのヒロイズムとはどのような本質を持っているのかといえば、それは利他の精神であろうと考えている。おそらくこの文を読んでギョッとする方が大勢おられるかもしれない、しかしながら私にはそうとしか思えないのだ。なぜなら自分の命を投げ打ってまで得られる利益など、この世には存在しないからだ。つまり自分以外の利益を優先した場合にだけ、このような結果が生まれるのではないかということだ。

では、このようなヒロイズムに対し、相対する思想は何んであろうか、歴史的な見方をすれば、それはニヒリズムというものではないだろうか。これらの思想は、ともにヨーロッパの歴史の中で生まれた言葉で、ヨーロッパがナショナリズムによる戦乱に明け暮れ、そこから産れた疲労感がニヒリズムやアナキストに繋がる風潮になったのではないかと思っている。ではニヒリズムの本質とは何か、私はそれを利己主義ではないかと思っている。つまり自分の命以上に大切なものは、この世に存在しないという考え方だ。

ところで、文章によればこのように対極の世界を定義することが出来ても、これを単純に人格と見なすことには抵抗がある。現実には、人間の人格は外からの情報によって、個人がいずれかの立場に身を置くか決めていくのである。この立場を形成させるところが教育というものであり、マスメディアの使命でもあるのだが、そこに求められるのが絶対的な公平性なのである。最も危険な行為はこの立場を誘導し、すでに固定されたものとして他人にレッテルを張ることである。

結局どれほど平和を叫んでいてもその行為が利他心たっぷりのヒロイズムからくれば、その行為は好戦的になる。また争いを避けて利己的になると、そこから生まれる世界は猜疑的で孤立し冷えた感情になる。そして最も恐れることはニヒリズムはヒロイズムにたいして絶対に勝つことが出来ないことだ。ニヒリズムが招く結果は、無抵抗で奴隷的な立場でしかないのだ。

ではこのような世界において最も賢い選択があるとすれば、ヒロイズム同士の争いで潤うニヒリズムなのだ。

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Posted by makotoazuma