思考ラボ
思考のまとめ⑤ この世は幻か
と考えるより、まず物質とは何かと考えるべきなのかもしれない。この考えを進めるにあたっては2つの道筋が考えられる。
まずはこれまで人類が取り組んできた物理学的アプローチと近年、量子物理学の発展から注目され直した人間原理という考え方の2つだ。人間原理とは宇宙は観測者である人間によって決定されるという考え方で、この考えを進めると宇宙は観測者によって生み出されるのである。だとすれば観測者の居ないところでは宇宙は幻のようなものである、ということになる。恐ろしいことにどちらも科学的観測で得られた結果なのだ。
ただし物理学的な観測結果が確認されたのはマクロの世界であり、量子物理学の観測では超ミクロの素粒子の世界においてである。そこで現在の科学では、この溝を埋めようとして研究が進められている。といっても私が聞いて理解できる話ではない。しかながら人間は自分とは何かを問い続ける生き物である、このことは宗教でも哲学でも探究されている人類の命題でもある。だからここに足を止めることになにも不思議はないのである。
さて私は勝手に知識の及ぶ範囲で物質について自分なりの理解を組み立ててみた。結果をいえば物質は観測によって得られる認識ではないかという思いになっている。理由は質量は加速度と同じ値を示すということからもいえるのではないだろうか、では加速度とは何かといえば速度の変化でこれが物の重さと同じというのはむしろ信じがたい。とはいえそこで注意しなければならないことは、加速度は絶対スピードではないということだ。つまり観測対象がどれほど高速で移動していても観測者が同じ速度で移動していれば、対象は動いていないことになる。つまり対象から観測される加速度は、観測者との相対的関係においてのみ出現することなのだ。
ところで光が実体を持つ粒子であれば、光は常に光速で進んでいるのに光の粒子はなぜ静止しているように観測されないのだろうか。つまり光が波長をもって光速移動するのは、光の定義に矛盾してはいないのだろうかという疑問である。このことから、光は粒子として空間を移動していないのではないかという思いになったのである。では移動ではないとすれば、どのようなことが起こっているのだろうか。このことについて私は光が移動したのではなく移動したように錯覚していると考えている。
このことについて例えれば、鉄道の踏切で2つの赤い点滅が、あたかも上下に光の玉が上下に行ったり来たりしているもののように錯覚してしまうことがある。実際は上下の赤いライトがそれぞれ交互に点滅しているだけなのだが、私には赤い同じ光が上限に移動しているように見えてしまう。このように光の移動とは観測者の錯覚とは考えられないだろうか。
これまで物質は観測にかかわらず宇宙空間に存在するものと考えてきたが、その認識も考え直すタイミングに来ているように思えてならない。結局物質の本質は光と変化という2つのキーワードで表現されるのではないだろうか。
あらためて物質を観察してみると、すべての物質は振動して熱を帯びて膨らもうとする。この動きを重力は収縮させる圧力として認識されている、またこの力の拮抗する表面が物質の体積として認識されている。すべての物質は状態の変化を基に形成されている。つまりこの宇宙は変化の認識のために存在しているということなのだ。その変化とは3次元的には回転運動であり、2次元的には振動という言葉で表される。
この動きは天体を形成するための回転運動であり、さらなる銀河を形成するための回転運動でもある。この運動を時間という流れで観測した場合は、螺旋を描くように観測されることになる。先を急ぐと、それでは観測者とは一体何んなのかという問いが生まれてくる。当然個人という制限を持った自分になるのだが、この本質は何かといえば、私はこれを情報の記憶つまり意識を持たない無意識という存在ではないかと考えている。なぜそう考えるかというと現象世界には、命という認識を超えた繋がりがあると感じているからだ。つまり無意識が個という認識を持った時に光の支配する時空間が出現する。我々の個性は極論すればこのうちの一確率にすぎないのである。
とは言え命はこの確率の多様性を求めている、決して1つの結果を求めているのではない。
ではこの多様性についてもう少し詳しく探ってみると、我々は特殊な存在が生き残ることを目的としていないことがはっきりしてくる。例えば人や動物の形は何処で決定されるのだろうか、ダーウィンの進化論では環境の変化による自然淘汰によって生き物は変化するそうだが、そのような外的要因まで生物は記憶して次の個体に伝達できるものだろうか、その伝達情報は1つの種だけでは完結出来ないことが分かる例がある。
以前このブログに載せたハンマーオーキッドが誕生するためには、この植物の情報だけではなく、蜂の形態や生態まで遺伝子に記憶して成長戦略を立てなければならないことになる。つまり種の持つ遺伝子だけでは彼らの生態は説明がつかないのだ。このような情報を包括的に認識して次の種に反映させるための意志が必要になってくる。この意志という矢印が命の誕生に存在するかしないかで、生命に及ぼす確率の在り様は全く姿を変えてしまうのではないだろうか。なかなか自分の思うところまでたどり着くだけでも大変だ、下手をするとまとめのまとめが必要になりそうだ。とはいえこの記事を読む人はもっと大変かもしれない、お疲れ様です。