思考ラボ
自力と他力
一般的に「他力本願」といえば、自分の努力はさておき、最初から人の力を当てにするエゴイズムを指す。ところがこの認識は、もともと浄土真宗でいう「本願他力」を曲解したものではないだろうか。あまり良い例えに使われていないことを見ると宗教の悲哀を感じる。
とはいえこのブログでも自分を手放すという言葉と自分の足で立つという矛盾した言葉は繰り返し使わせていただいているので無関心ではいられない。このことについて読者の中には、これは二律背反だと思われている方も、きっとおられるのではないだろうか。不思議なことに私はこのことにあまり違和感を感じていない、むしろごく自然なことのように認識している。
今日はこれから、このことの釈明を試みようと思っている。そうすることによって私の感じている世界の輪郭を自分なりに表現できるのではないかと思うからだ。お断りしておくがこれは既存の宗教等についての解説ではない、あくまでも自分なりの世界感を整理するためのものだ。
初めに他力とは何を示す言葉だろうか、この言葉を考える前に自他という言葉について確認しておく必要がある。というのも自己には2つの認識があると感じているからだ。一つは生物的な限界を自己とするもの、もう一つは精神的な世界を含めた自己を表現するものである。このうちどちらの自己を考えるかで立場はまったく違ったものになる。私が認識している自己とは精神世界も含めたワンネスとしての自己を指す。それは個性という仕切りを外した無意識の世界を示す、要するに世界は一人称で完結するという意味だ。つまりこの視点で認識する自己と、生物的な限界で認識する自己には表現の違いが出てくるということなのだ。
このことから自力と他力を考えるためには、最初からいったいどの視点での表現か見極める必要がある。
私が自分を手放すという表現のほとんどは自己の仕切りを手放すという意味で使っている。また自分の足で立つというのは、無意識の世界に立って自己を見つめるということだ。ところが常識の世界では生物以外の自己という考え方は存在していない。私は常々このことを軽んじてはいけないと自分を戒めている。なぜなら痛いものは痛い、寒いものは寒いからだ。さらに言えば、実態がどうであれ考えるという行為そのものが意識の世界における現象そのものなのである。思考することは結局、現象の世界に留まることでしかない。
さて話をテーマに戻すと他力という言葉は、生物的な限界の自己から認識する自己以外の世界を他力の世界と表現されているのではないだろうか。
つまり、他力とは自己の仕切りが無い世界を表現しているにすぎない。他力の世界の入り口は自己という認識の仕切りをいかに外すかに掛かっている。浄土真宗では本願は他力であり絶対であると表現している。このように考えると一見、禅のように自主的な行為に身を置く修行の世界も落ち着く先は自己の解放である。
さてこんな現象世界に我々が存在する意味とは何だろうか、あらゆる方向に現象の起りうる可能性があるとすれば私の望みはこの現象世界において自分の生き方に目をそむけたくなるような生き方はしたくないと思うのだ。自分に湧き起こる思いに正直に向き合うこと、それが個性に託された本当の願いではないだろうか。