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思考ラボ

2024年11月17日gallery,ようこそ

美しさとは

絵を描くにも一体自分は何を求めて絵を描くのかと考えることがある。単に目に優しいものを描いているのではないことはハッキリしている。では鑑賞者の興味を引くために奇をてらい鑑賞者の知覚を興奮させることだけを意図して絵を描いているのか、それならキッチュなお化け屋敷もまたアートと言えるのか、そうとは言えないというのが美術を愛好する人たちが持つ大方の認識ではないだろうか。

私が思うアートはこれまでも様々なアプローチがあったにしろ、私はそこに人類共通の核心というものがあるのではないかと考えている。だからこそアートは世界の共通する認識になり得ると思っているのだ。私は無常の世界に漂いながらも、そこから核心を覗くための、覗き穴がアートだと思っている。

ともすれば我々の実生活はアートの目指す核心に対して、時代から生まれる常識を目隠しをするように張り付けてきた。この時代に生まれる常識とは、ある時はイデオロギーであったり、またある時はお金儲け一点張りの考え方などだ、いずれにしろそれらの流れは命という人類の核心から遠ざかる流れであることに違いはない。なぜならそれらが掲げる正義によって悲惨な戦争は今日まで繰り返されいる。それが今や人類の存亡さえ揺るがすことになっていることからも明らかなのだ。

話は変わるが、我々日本人のたどり着いた美意識の一つに茶道や俳句の世界がある、侘びること寂びること、あるいは不易流行という言葉に表わされる世界がそれだ。一見表面的に眺めると、それは禁欲だけの世界のように感じてしまうが、そうとも言い切れないところがその世界の奥深いところだと思う。お茶の世界と聞くと、小さな庭と小さな茶室が思い浮かぶ、それは苔むした小道を通って至る木々に囲まれた茶室である。そこは人が息づくための最低限の空間があり、その小さな茶室にはお茶を立てる人とお茶を頂く人との関係性しか存在させないというある種極限の世界である。そして俳句の世界もまた、その世界を構成するための文字数はたった17字しかない。この中に無限の世界を捉えようとする表現なのだ。

こんなことを日本人は最高の満足と考え今日まで伝承してきた、ようするに自然をたたえてそこにひっそりと寄り添う暮らしが伝統的な日本人の喜びだったようだ。

不思議なことに日本では軍事の専門家である武士階級や、お金儲けに明け暮れる商人たちが、こぞってこの文化を嗜好してきたのである。私はこの様な視点からの美術的アプローチを考えると、日本の美術界にはこれからもまだまだ多くの可能性が残されていると思っている、それは日本の伝統的なモチーフをさらに超えた表現になるかもしれない。というのも現代科学の視点は、過去には考えられないほどの変遷を遂げているからだ。それはより多角的な視点であり、そこから垣間見る自然と人間の付き合い方も、当然その視点に合わせて多様な表現が存在しうると思えるからだ。その美意識は多様で質素、繊細で大胆である、お金は人間を傲り高ぶらせるが、大地の恵みは人間を謙虚にさせてくれる。

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Posted by makotoazuma