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思考ラボ

2024年9月15日gallery,ようこそ

2023年 4/28 あるのかないのか それが問題だ?

物質とは認識に関わらず絶対的に存在しているという考え方と、物質は認識できなければ存在しているとは言えない。という考え方に世の中は分かれるそうだ。20世紀は圧倒的に前者が優位に立っていたが、最近のサイエンスはこの立場を危うくしている。

最近聞かれる量子の世界では人の意識が実験結果を左右してしまうということまで実証されているのだそうだ。こうなって困るのが唯物論という考え方だ。極端な言い方をすれば、人の幸福は物質の量によって決まるという考え方で、これによると精神的な救済は幻惑に他ならない。

物質が絶対的な価値を持つというのは、とても分かりやすい、例えば飯を食えなければ、あなたはすぐ死んでしまうだろうといわれれば、返す言葉もないように思える。だから物質は幸福とイコールで、富という物質は公平に分配されなければならないということになる。ところが、世の中は何故かその逆に向かってしまうのではないだろうか。なぜならこの思想の困ったところは物質が絶対的なものであるとすれば、必ずそこには限界というものが生まれてしまうからだ。

そのため物質を分かち合うことは、必ず限界が見えてくることになる、つまりこの考えに共感すればするほど、実は分かち合うことが困難になってしまうのだ。富の分配という立派な言葉を使いながらその実現が危ういのも、その考え方の根底には物の本質とは相いれないものがあるからではないだろうか。

このような思想と対立するキリスト教などでは教えを乞うために集まった人々に対し、弟子たちはパンを配りだすがそのパンはすべての人にいきわたるまで無くなることはなかった。一見これまでの物理学とは矛盾する話に聞こえるが、パンを人々の幸福ととらえると、幸福はいくら配っても無くなることはないと諭しているのではないだろうか。またそのことを強調するために人はパンのみに生きるにあらずとも言っている。

ここで考えをまとめると物質が絶対的な存在だと考えれば、物質の量には限界があることになる。その物質が人の幸福と結びついていると考えれば、人の幸福にも限界があって人が増えれば増えるほど幸福の量は分散されて希薄になる。これに対し物質は人の認識によって生み出されるものだと考えれば、物質には限界が存在しないことになる、たとえ物質と幸福を結び付けたとしてもその量が分散されたり希薄になることもなく、認識は人が増えれば増えるほど膨らんで多様に存在することになるのではないだろうか。

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Posted by makotoazuma