思考ラボ
2023年 6月5日 空と無の違い
空と無はどう違うのか、最初にお断りしておくとこの文章もやはり私の単なる思い付きで、私の考えを整理するために書いている。
もしも仏教の世界に触れようとすれば、空と無の言葉から離れて理解することは難しいだろう。残念ながら私の信仰する浄土真宗ではこの言葉を聞くことがない、とはいえ成すがまま何もしない方が良いという教えではないだろう、私は自分の思うところに本願はあると信じている。
さてこの言葉をよく耳にするのはやはり般若心経からの影響だろう、正しくは経の字はつかないそうだが、仏教を知ろうとすればこのお経に仏教の本質がここにあるといっていいのではないだろうか。ところがこの経典の内容を頭で理解することは、そう容易いものではない。何しろここには否定に次ぐ否定が書かれていて、いったい最後は何が残るのかということになる。今日はその何が残るかにチャレンジしてみようと思っている
さっそく般若心経を読むと2つの事柄について述べられていることがわかる、冒頭の部分は空の認識について説かれいる、それは空と色の関係について説明されているようだ。さて、次の部分は五感による認識の否定によって無の世界を示しているように読める。ここで用いられる無は否定の言葉として繰り返されていくが、この否定はあらゆることに及んでいく。とはいえここが般若心経の悩ましいところで、私はここが空と無の仕切りになっていると思っている。つまりその仕切りとは五感による認識可能な世界とその世界を否定することによって現れて来る世界である。
さらにこの空は、2つの認識によって区切られていて、一つは時空間を表現している空と、もう一つはそこに納まる物質を表現する色である。しかもそれぞれは同じものだとも言っている、言い方を変えれば空にしろ色にしろ時間と共に変化してゆく儚い存在なのである。このように我々が信じる現実とは色、空の世界であり一瞬たりとも留まることがないのだ。対する無の世界とは人間の感覚では捉えることのできない存在なのだが、この世界においては時空間が存在しないために不動であり静寂の世界なのである。ではそこに何が存在しているのかといえば、私はこの宇宙のすべてのできごとが記録されている情報の世界があると思っている。そのことから情報は増えることはあっても決して減ることはないといえるのだ。このことは熱力学のエントロピーが拡大する方向にしか向かわない説明にもつながるのではないだろうか。
ここでこれら2つの関係を整理すると、我々が目にする現象の世界は時空間に支配されていて、その中に存在する物質は常に変化して留まることがない。しかしながらその本質にある無の世界には時空間が存在しないために、不動であり消え去ることのない存在といえる。
さてここまでくるとその先が気になる、ではなぜこのような仕組みが必要なのかという疑問だ。私が考えた答えは情報を増やしたいという意志がこの世界には確かに存在しているということだ、残念ながらその情報には善悪の境がない。そのために私には時としてこの世界が悪魔的に感じることさえある。
そうなるといよいよ人生を受け入れることは難しく感じてしまうのだが、そこから私は次の思いに至った。それは人生に対して喜びを増やすための意志をもって生きようという思いだ。どうせ増えるだけが目的の情報なら、悲しみの情報よりも喜びの情報が増えた方がいいに決まっている。喜ぶ人が多ければ多いほど喜びの記憶は残っていく、そう思うと世の中にただ流されるばかりで良いのかという思いになる、何故ならやっぱり世の中どっか狂っていると思うからだ。