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今日は好日

2022年12月3日gallery,今日のできごと日々のブログ

2022年 3月29日 理解という妄想

何の事かと言えば真理に対するアプローチのことです。妄想とは錯覚を真実として確信してしまうことです。

我々人類は何時しか人生に対する底知れない恐怖から、人類の存在自体に疑問を抱くようになりました。つまり我々が理想とする生活が維持できないのは何故なのかという疑問です。

我々は慈愛や博愛の精神を学ぶと、何故世の中に、このような尊い精神が実現されてこないのか「我々の努力が足りないからなのか、或いは我々の存在自体が、そのような尊い精神とは相いれないものなのか」というような猜疑心に近い思いが湧いてきます。

このような思考は慈愛、博愛を実践できるグループとそれを実践しないグループに分けて世界の理解を促します。簡単に言えば、正義と悪というような2元的な理解です。ところが冷静に現実を見てもそんな単純な現実は存在していません。

そのような対立構造にある世界が作られるのは言語の世界だけです。通常私たちはこの言語をもって世の中を理解しようと試みます。

そのことによって言語が理想を生み、理想は本質的な対立構造を我々にもたらすことに成ります。つまり、言語の世界でどれだけ真実を探求しようとしても、対立構造の理解から抜けることが出来ません。私はこのような理解のアプローチこそ世の中に恐怖の世界をまき散らす根本原因だと思っています。

因みに、禅の世界ではこのような分別の世界を強く戒められていて「真実は分別による妄想を手放すことだ」と言われています。

恐れを心に抱く人たちにも光明が届いています。