今日は好日
年 12月16日 好意は愛じゃないのか
相手の喜ぶ顔が観たい、確かにこれこそ愛の姿ようですが、はたしてこれを実現させることはそうたやすいことではありません。なぜなら相手が何を望み、何に対して喜ぶのか分かりません。こんな時大変便利なのがお金です。なので、一頃は愛もお金で買えるという理解がありました。
お金をプレゼントして喜ばない方がいるとすれば、それはお金の価値を知らない人です。お金はほぼ、100%相手を喜ばせることが出来ます。
ところで、お金に満ち足りた人は、喜びにも満ち足りているのかといえば、恐らくそうではないと思います。こんなことを言えるのはお金持ちを体験した人でなければ言えないことかもしれませんが、もしお金でこの世の喜びを手に入れることが出来るなら世の中の宗教の求めるところは、お金であっても良いはずです。
ところがほとんど宗教は何故かお金についてはネガティブです。お金は手放して置いていけということなんでしょうか。
このように喜びを与えることにフォーカスするといろいろ難しいことが起こります。つまり与えることが出来る人と出来ない人に分かれてしまわないかということです。勝手に愛について語っていますが、この愛の定義こそあいまいで確かな定義が有りません。これほどポピュラーで人生の目的、或いは神の意志を表現するこの言葉が実は明確な定義を持っていません。
なので言いたい放題、後は受け取る方にお任せです。
私は喜びを与えることが愛だと定義すると、愛を生み出せる人、出せない人に分かれてしまわないかという思いになります。
そこで、私が考えたのが愛は感謝でしかないという思いです。このように定義すればあらゆる階層の人間がその環境に左右されることなく無限に愛を感じることが出来ます。愛はその人の想像力によって無限に生じていきます。
宇宙が何に満たされているかは分かりませんが、我々が存在する限り感謝が枯れることはありません。