今日は好日
2022年 1月7日 ゴーギャンとゴッホ
どちらも超有名な後期印象派の画家でお互いの才能を認め合うほどの親友です。ゴッホの呼びかけにゴーギャンが答える形で南仏での共同生活が始まります。ゴッホが夢に描いた画家同士によるコミュニティの実現です。「初めは生活が厳しくてもお互い支えあうことが出来れば何とかなる。」ゴッホは希望に燃えています。さすがだなと思うのは二人の天才同士、お互いを見る目に間違いは有りませんでした。ところが困ったことに天才は、天才であればあるほど自分の道に確信があり、その道を貫こうとします。
案の定二人は、すぐに仲たがいが始まります。特にゴッホは先天的に、相手への許容度が狭く自分の考えを曲げようとしません。例えばこのような磔刑の絵は実際には見ることのできない世界です。このほかにも天使が相撲を取っている絵などゴッホにとって虚構の世界としか受け入れることが出来ません。
いったいなぜ、ゴッホがそれほど現実にこだわるのかといえば、生い立ちやゴッホが暮らした時代の影響もありそうです。もともとゴッホの家計はプロテスタントの牧師をしていたのですが、使命感に燃えるゴッホにとって人を導く牧師の仕事は、天職と思って取り組んだのかもしれません。ところがあまりにも潔癖すぎる性格から社会と折り合いをつけることが出来ません。
彼のような純真な魂にとって正義と悪の中間という発想を持つことが出来なかったのでしょう。彼の勤める教会の信者との軋轢がどんどん深まり、教会もゴッホの極端な行動を看過できないようになり、やがて教会の職を追われることになります。何も不敬な行いをしたわけではなく聖書に書いてある通りのことを現実社会で実践したために職を追われるとは人生の悲哀を感じます。また、ゴッホが暮らした時代にはマルクス主義が生まれてきます。
若いインテリにとって新しい秩序を思わせるマルクスの思想はとても魅了的に映ったと思います。つまり、唯物論、物質こそが現実のすべてであるとした場合、現実から逃避したような表現は権威を振りかざし大衆から富を搾取しようという行いと捉えてしまったのかもしれません。だからゴーギャンの作品ように、夢物語のような絵は受け入れられなかったのだと思います。ゴッホにとっては土にまみれて労働する農夫こそ神聖な存在と位置付けられていたのかもしれません。
また、この絵については自分の持つ狂気をゴーギャンが描いたようにゴッホが受け取ってしまったことで、二人の溝を決定的なものにしたようです。ゴッホも自分の持つ狂気につては恐れを感じていたのでしょう、出来れば表に出てきてほしくない一面だったと思いますが、ゴーギャンの真実に向き合う眼差しは無慈悲にもゴッホの狂気を露呈さてしまいます。
ところで、この二人の天才のうち本当に真実と向き合ったのはどちらの天才だったのだろう。私はどちらも正しい、ので譲り合うものはないと思っています。