今日は好日
2022年 2月10日 胴乱の幸助
落語の話です。東京、大阪までやっと鉄道で結ばれた頃のお話で噺家さんは桂吉弥師匠、昔しNHKの朝ドラで「ちりとてちん」というドラマの中で噺家役を演じられていましたが、俳優さんとしても素晴らしくどっちが本業なのかと思えるほどの快演でした。
さてこれもおなじみ落語研究会の視聴でしたが、胴乱の幸助はもともと上方のお話で、記憶にあるのは人間国宝、桂米朝師匠の胴乱の幸助です。この噺の可笑しさといえば有名な浄瑠璃の演目を、胴乱の幸助が知らずに本当の喧嘩だと思い込み東京から京都まで仲裁に駆け付けるというドタバタです。
場面は東京の往来で二人の男がただ酒を飲むために、幸助の目の前で喧嘩のお芝居を始めます。この幸助という男は身持ちが固く、仕事一筋で、焚き付けの蒔きを割って商いしていたため、割り木屋のおやじとも呼ばれていましたが、この男は趣味というものに全く興味を示さないため、この時代の人間からすれば無粋な人間つまり世間に疎い人間として描かれています。
この落語は無趣味な人間の無粋さを滑稽に描いた作品ですが、江戸時代の町民文化は芝居や歌の教養が無ければこのように無粋な人間、または滑稽な対象とされていたのかもしれません。
さて歌や芝居には全く興味を持たない幸助ですが、どうしても抑えられないことがありました。それが喧嘩の仲裁で、目の間前で喧嘩があれば、そこに割って入って仲裁するという実は正義感のとても強い方です。
そんな一本気で純粋な人を笑い物にしてからかうのは、どうなんだろうという気もします。
では、この幸助さん何故、胴乱の幸助という変わった呼び方をされたのでしょうか、この胴乱というのは革で出来た鞄のことを言いますが、もともとは海軍の兵隊が鉄砲の玉を入れて持ち歩くための鞄のことを胴乱と言ったそうです。
幸助はその胴乱を首から下げて財布代わりにしていたそうです。そして喧嘩の仲裁になると、争っている二人を飲み屋に連れて行き、酒をおごっては仲直りさせていました。その時の支払いを財布代わりの胴乱からしていたことから、胴乱の幸助などとあだ名されたようです。
さて、幸助さんが路地を歩いているとある家の前に人だかりが出来ていました。実はこの家、義太夫を教える教室なのですが、家の前を囲んでいる人だかりは、その稽古を窓から覗く冷やかしでした。
ところで義太夫とは何かといえば、浄瑠璃の歌や語りの部分を独立させて義太夫と言います。義太夫といえば寝床というくらい有名な噺が浮かんできます。それほど義太夫は、昔から庶民の習い事としてとても人気があったようです。さて幸助が窓を覗くと稽古をしていたのは、お半長という当時大変人気のあった悲恋の話で、悪いことに聞こえて来たのは、嫁が姑にいびり倒されてる言い争いの場面でした。
この言い争いを聞いて黙っていられないのが幸助の性です。趣味のない幸助にはこれが浄瑠璃の話ということを理解できません。早速教室に乗り込み言い争いを止めるよう義太夫の師匠に詰め寄ります。師匠が仕方なくこの物語は京都の柳の馬場押小路で起こったことだと告げると、早速、幸助は京都に向かいます。ところで京都には芝居で語られる住所に偶然呉服屋がありました。この義太夫に出てくるのは、呉服屋ではなく帯屋なのですが幸助は全くお構いなしです。
災難なのは呉服屋で、幸助の言うことを呉服屋の亭主が聞いていると、どうやら幸助が義太夫の話と現実を混同していることに気づきます。呉服屋の亭主にしてみれば、いきり立っている幸助を見るとあほらしいやらおかしいやらで、このけったいな男の突然の訪問になすすべもなく、ただあきれ果てるという話です。
このように江戸時代から男のたしなみという考え方があって、そこでは教養や趣味を生活にとっての大切な潤いと考えられていたようです。このようなことを知ると1980年代、世界中からエコノミックアニマルと呼ばれ、世間でも社畜とさえ言われても何の疑問も持たず、むしろ男の美学のように語られていた時代がありました。
今思えば、日本の黄金期と言いわれていた時代ですが、実は日本の大切なものを無くしていた、淋しい時代だったのかもしれません。