今日は好日
2022年 2月24日 無念の念を念として
幸せな生き方とは、ここにあるようです。この言葉は禅サンガの座禅会で唱和される白隠禅師の座禅和讃の一節です。ネットにもたくさん掲載されていますので、一読されることをお勧めします、また文章は面倒という方は「ウンちゃんねる」というYouTube配信で丁寧に解説された動画が有ります。
さて、私たちの人生は渇望によって生まれて渇望のまま終わります。いったい誰がこんな世界を望んだのかさっぱりわかりません。いつの間にか不幸な人生に気付いた時には、泣きながら人生を歩かされていた、というのが正直な思いではないでしょうか。
ところが隣を観れば隣の人は何とかこの世界と折り合いをつけて上手くやっているように見えます。場合によっては自分だけが自分の望みとは、全く違う世界を生きているように感じます。なぜ自分だけがこのような苦痛を受けるのか、何故これほどの悲しみに出会うのか、幸せに出会うどころではなくなります。遅かれ早かれ「自分の生まれたこの世界は苦しみで満ち溢れている。」という解釈になります。
なので人生とは自分の望みをかなえることこそが、人生の目的と思われるても仕方ないのだと思います。このように考えると目的に当てはまらない人生は全くの無駄、間違った人生と受け取られます。現状が自分が望んだ目的とあっていなければ、人生を間違った人になります。短絡的にゲーム好きの人はリセットを考えるかもしれません。
ここでよく考えて頂きたいのが、いったい誰がその目的というものを作ったのかということです。この目的はかってに自分が作り上げた幻想にすぎないのですが、いつの間にかそれが普遍的な真理に見えてきます。思考の世界の怖いところがそんなところです。やがて自分が創り出した真理を基準に自分を裁きます。他人の云うことであれば逃げ場があろうというものですが、この裁きは自分の中から湧いてくることなので逃げ場がありません。そりゃあ不眠症にもなります。
そこで、本日のタイトル無念の念を念としてという言葉です。禅の言葉なので難しく聞こえますが、無念無想という言葉をよく耳にされると思いますが、簡単に言ってしまえば「何も考えるな」ということなのですが、これでは生活というものが成り立たなくなりますので、「本来の姿はここに在るということを感じましょう」ということです。
私たちは、気が付いた時には息をして泣きながらではあっても存在しています。大切なのは既に存在しているということへの気づきです。そこが、安心の源で安心を感じて生きることが幸せに生きるということです。
たとえどのような境遇であっても、貴方は導かれている。それが今ここの世界です。