今日は好日
2022年 2月25日 満ち足りた世界
今日は、そんな世界に皆様をご案内します。特別なことはありません。そのままこの文を読んで頂くだけです。そこでは、息をすることも喉が渇くこともありません。むしろ欲望が存在できない世界と言った方が正しいかもしれません。
変んな例えですが、目の前においしそうな羊羹があったとします。ところが目に見えているのは羊羹の端っこで、たべて美味しいところは、端と端に挟まれた真ん中です。では羊羹の真ん中を自分の目で確認することは出来るでしょうか。
さっそく、おいしそうな羊羹に包丁を入れたとするとその瞬間、目に飛び込んでくるのは先ほどと同じ羊羹の端っこです。「つべこべ言わずに飲み込めば解るだろ」と言いたくなります。
じつは今日のお話も目の前に当たり前にあることで、皆さんすでに納得されていることです。そこにわざわざ注釈をつけているにすぎません。
前置きが長くなりましたが、皆さんには、今この瞬間を感じて頂くことが出来ますか、出来ない方はいらっしゃらないはずです。では早速「今という瞬間」を感じてみてください。さて、「どんな瞬間でしたか」と問われると即座に表現できる方はいないと思います。
ちょっと意地悪な質問でしたが、もともとそんなことは誰にも出来ません。どんな文豪でも科学者でも、先ほど羊羹のお話をしましたが、同じことです。羊羹を時間に置き換えてみてください、時間軸の「今この瞬間」とは、過去と未来に挟まれたその一点でしかありません。時間も粒子と捉えることが出来るのであれば、その一粒です。
このような瞬間の世界にあっては、目で感じ取った情報が頭で解釈するまでの間、時間は過ぎ去り過去という記憶の世界に代わっています。それは音であっても臭いであっても味であっても五感でとらえた情報は、今この瞬間をとらえたものでは無いことを意味します。また今この瞬間の世界にあっては想念の世界も同じことが言えます。
つまりこのような五感の及ばない世界では不足という思いも起こりません。いわゆる渇望という苦しみも存在できないことになります。このように考えると「今この瞬間」は痛みや苦しみとは無縁のまったく満ち足りた世界と言えないでしょうか。
私たちが、常にもがき苦しんでいるこの世界は五感が感じ取り、思考という置き換えの中で生まれた過去の世界です。そこで起こることは因果律によって繋がれ形を変遷し留まることがありません。
ここまで来るとどこかで聞いた話だと気づかれた方も多いと思います。何か般若心経の世界のようですね。
残念ながらその辺のところは、プロの方にお任せした方が良いと思いますのでこの辺で終わりたいと思います。