今日は好日
2022年 3月12日 導かれる世界
このブログもいよいよスピリチュアル系の色合いが強くなってきました。正直これは私が望んだことではありません。私はこのブログを自分の作品の発表の場と考えて記事を書いていたつもりです。
なので、私の作品をもっと知って頂くための記事だったはずですが、何故か神社の記事を載せたり、自分の勝手な解釈を記事にしていたり、全くとりとめがありません。スピリチュアルな記事については、表現の対象が無意識の世界ということで、この思いを綴ってきました。
そのことは結局精神世界と強く結びついてくることなんですが、何故奥の細道についての投稿があるのか自分でも驚くばかりです。
気が付くとこの投稿を通して義経と出会い、今では鎌倉殿の世界にすっかり取り囲まれているような気がします。
そのほかにも思いつくまま描いてきたつもりだった、私の作品も振返ってみるとその根底には一つの流れに沿って創作が進んできたことがわかります。私は制作にあたって何物にもとらわれないことに、すべてを捧げたつもりでしたが、実は最初から太いレールの上をただ転がってきただけなのかもしれません。
つまり、創作活動にあたっては、自由に自分の意志を貫いてきたつもりが、初めから決まったストーリーを辿ったに過ぎないという思いです。では普段感じる違和感や望まぬストーリーはどこから来るのでしょうか。
それが、目の前に展開される現象への自分の解釈であり、そこから生まれる感情の起伏では無いでしょうか。結局この大変だストーリーは自分んでそのパーツを集めて作り上げてしまった自分だけの世界のはずが、自分以外に分離した意識を創造することで可能になる、弁証法的理解によって納得しているだけのことです。
ではこの大変だストーリーを抜けるためには、どのような方法があるのでしょうか、それには自分の解釈を挟まずに目の前の出来事に向かうことなんですが、人類の背負ってきた苦しみはそう簡単に捨てきれるものではありません。これにはある種の鍛錬が必要になります。
この鍛錬の実践こそ座禅や瞑想ではないかと思います。そこから得られるものは在ることの喜びです。