新 思考ラボ
2025年 6月18日 ENizmと絵画
最近アートとは何かを考えることが多くなった。というのも表現の自由と公共の福祉など、どちらか一方に偏る視点だけではこれに対応することが出来ない。要するにこれを乗り越える術こそ現代作家の才能ではないかと思っている。因みに現代話題の現代美術の作家といえばバンクシーやカテランの名前が思い浮かぶ。そしてそこに表現されている作品のモチーフはまさに現代人が抱える心の棘のようだ。現在この潮流を作ったアンゼルムキーファの作品は、京都二条城で展示されている、恐らく作品の前に立てばその強烈な引力によって身じろぎ出来ないほどの感覚に嵌ってしまうのではないかと想像している。この展覧会を観覧できるチャンスのある方は幸運というよりない。
ところで、このような表現の基を辿ればどうしてもダダイズムという表現活動に辿り着いてしまう。そしてこの活動が生まれる切っ掛けとなったのがWWⅠにおける人類の絶望だろう。これによりアーティストは創造行為を一度自分の中で否定しなければならないという、これまでの常識が完全に覆ってしまった。これを言葉にすればニヒリズムという言葉が当てられるようだが、ダダイストらの作品を見ればそんな生易しいものではなく、既存の価値観に対するハッキリした破壊活動なのだ。
これにより明らかにされるのが物質的価値観の否定なのだが、ここから繋がるシュルレアリズム提唱者のアンドレブルトンなどは後に距離を置くことになる共産主義に自ら接近していく。さてこのようなスクラップアンドビルドの創作から、100年を経過した現在において物質の否定を起点としない、存在そのものの表現行為として私はENizmを提唱している。簡単に言えば物質の否定から現れる表現ではなく、無意識世界の物質化である。これを論理の世界で表せば答えは同じところに至るはずなのだが、私はいまだその確証が得られていない。その理由を考えれば簡単で、もともと方向性の定まらないソースから表現を試みれば、そこから生み出される作品は自ずと方向性を持たない多様な結果となるはずだ。このため今私の心の中を締めているのは、これでいいのかという思いと、これしかないという思いの錯綜状態だ。結局いいのか悪いのか分からないが、この世界を突き詰めていくと自己という仕切りは消えざるを得ないように感じている。つまり「ウンこれでいいのだ」となる。