新 思考ラボ
2026年 4月28日 世界は何故多様なのか


我々の住む地球上で生命の痕跡を見つけられない場所は存在するだろうか。昨日も公園を散歩しながら一人でベンチに腰かけていると、周りで様々な鳥の囀りが自分達の存在をアピ-ルしている。しかも聞こえてくるのはそればかりではない、虫の羽音や目の前の池に住む水生生物が水面を叩きその存在を誇示している。つまり私は人間としては、孤立した一人の存在のようではあるが、厳密には常に様々な命に取り囲まれている状態なのだ。
その広がりを考えると生命は雲の上だろうと水の中だろうと土の中さえお構いなしに存在している。つまり人が住みたいとも思いもしない処にさえ彼らは居場所を見つけ、命を育んでいるのだ。しかもよく視るとその姿はその場所にぴったり適しており、まるでその場所に初めから存在しているのが当然というようにも感じるほどだ。このような自然の在り様を学校教育では適者生存と教わるが、果たしてこの考えは正し考え方だろうか。というのもその適者がこの世に存在するためには、途方もない失敗が存在しなければならない。それが論理的思考の出来る人間様であっても、その発明の解に辿り着く為には99%の失敗が必要と云われる。ところが自然界ではそんな設計ミスのような生き物を見たためしがないのである。
さらにいえば、鳥類などは陸上に住む恐竜が突然変異して羽が生えたとされている。ところが、羽の持つ複雑な構造自体、確率的に発生するとは到底思えないのである。確率といえばサイコロの目を想像してしまうが、鳥の羽が確率で丹序するというのは、時間の経過によってサイコロに9の目が出たりすることに等しい。むしろ体毛が飛行に適した構造に変化するのはこれ以上有り得ない出来事に思える。
要するに鳥の羽は初めから空を飛ぶために変化したと考えなければ、これを何時でも起こる確率論で説明することは不可能に違いない。ということはこの世界は人には想像もつかない思いによって育まれていると考えるべきだろう。結局鳥は鳥になることを望んで生まれたのではなく、ただ鳥として生まれたことを受け入れるしかないのである。要するに生命には生きること以上の目的は存在しないということなのかもしれない。日本人はこのことを「かんながら」とよんでいる。