新 思考ラボ
2025年 11月24日 確率と意志

これまで科学の世界における出来事は、可能性の数だけ存在すると考えられてきた。例えばコイントスを行えば、初めのうちはどちらかに偏るが回数を重ねればどちらも平等に発生することが分かる。ところが実際はこれに当てはまらない現象があるのも事実だ。任意の集団があればそのうち2割がエリート化してしまう様に、それが何故かは神のみぞ知る状態のようだ。
これに対し古より人間は念ずれば通ずという言葉も理論では証明が付かないものの体験的に受け入れられてきたのだろう。ところが最近このような念の力が量子の世界では充分作用することが確認されてしまった。こうなると現実世界はこの念という科学ではいまだ証明されていない力が存在していることを受け入れざるを得ない状態にある。
このようなことが事実なのであれば、当然人間は自分の措かれている状態を自分の理想に近づけることを考えるはずだ。表現を変えれば自分の理想とする幸福な状態を手に入れるために、人間はこの念というものを積極的使おうとするはずだ。恐らく宗教の根底にはこのような人間の思いと重なる部分が多くあることは間違いないと思える。
ところが人間の考える理想というものこそ一様ではなく、前回の幸福論も結局のところ、そもそも人間存在とは何かというところまで行着いてしまう。つまり私にとっての宗教は、そこに至るための過程にすぎないとさえ思っている。つまり何故生命は誕生したのか物質とは何かというところまで辿らなければ幸福論の到達点は見えてこないだろうという考えなのだ。
ではその到達点と言える物質とは何かという問題になると、これまた確率的必然によって生まれるものか、或いは何らかの意思が介在するものかという問題に行き当たる。この点で私は物質というものには懐疑的立場を取っている。私はこの世の存在はいわゆるイメージのようなものと考えている。目の前の現象すら何らかのプログラムではないかと思うほどだ。というのもこれだけPCが普及している現代においてプログラムを物質的なエネルギーや時空によって捉えることは難しい。何故ならプログラムは概念でありイメージの世界に他ならないからだ。例えば今私の目の前にあるパソコンも30年前は家一軒分の物量を使わなければ同じ性能は得られなかっただろう。
要するに情報とは、有る無しの情報を回路による時間軸のずれで何らかの意味付けをしているに過ぎないからだ。いまではこの機械を量子理論で動かすそうなので、人類の未来はいよいよ物質から距離を置く世界に移行していくに違いない。では人間にとって物質世界を超えた幸福とは何か、新しい幸福の定義が必要になるのではないだろうか。