春望録
2025年 2月23日 日本万歳
今年も今上陛下の御誕生日を迎え喜びと感謝をもって山上大神宮に参拝してきた。ところで敗戦から80年が経つ現在も国旗や国歌に対してこれに特別な愛着を感じることは妙に居心地の悪さを感じることがある。それは戦争と天皇制をあえて結び付けようとする力が存在しているからだ。確かに鎌倉幕府から続いた幕府体制は明治維新にとって都合が悪かったに違いない。そこで利用されたのが、天皇に将軍以上の権力を持たせることだった。これにより明治以降天皇陛下を軍のトップである大元帥に仕立て上げてしまったのだが、このようなことは皇統を危険に晒すもろ刃の刃だったに違いない。果たして皇統は大東亜戦争の敗戦による最大の危機を迎えてしまった。しかしながらこの危機を乗り超えることが出来たのも国民の気持ちが天皇から離れなかったことが大きな要因だったことは間違いがない。とはいえ国旗や国歌に対する誹謗中傷は相も変わらずで、そればかりか年々その愚劣さを増してきたように感じている。しかも残念なことに教育の現場において、このような見当違いが行われていることは残念の極みである。なぜなら本来国民の幸福のために使われるべき税金がむしろ国民の理想や希望を貶めることに使われてしまうからだ。
さてこのようなめでたき日にあって、我々日本人は改めて日本人とは何かを考え直すべき時に来ているのだと思う。さて日本の長き歴の中で諸外国の方が日本人に触れて印象的に思われるのは、なんといっても道徳心の高さだという。というのも2,3年前までは日本で財布を落としてもほとんどの場合戻ってくるのは常識だった。ところがここ最近聞こえてくる事件は家の鍵をかけていても強盗に有ったり、都会で夜道の一人歩きは命の危険を覚悟しなければならなくなった。
これはいったいどのような事かといえば、見境の無い移民政策を訴える総理大臣が誕生した頃と重なってしまう。とはいえこれが日本だけの現象かといえばそうでは無い。西側諸国と言われる国々に共通してみられる現象なのだ。
このような中で、本来他者をいたわり、不道徳を固く戒めてきた日本の暮らしが、このような愚行を顧みない政治家によって破壊しつくされようとしているのだ。
ではなぜこれまでの日本人が他国から見ても明らかなほどの道徳心を獲得しえたのかといえば、高徳の象徴である天皇の存在失くしては起こり得なかただろうと思える。つまり天皇への尊崇の念が国民一人一人に自然な形で道徳心を植え付ける作用を及ぼしていたと言えないだろうか。例えば、昔の人は周りで誰も視て居なくても、お天道様が視ているという譬えを使うことがある。これなども天皇陛下が天照大御神から繋がる霊的な存在であり、そのような国の臣民として我々は、その遺徳を穢す様な事をしてはならないという思いに至るからだ。そう思えば日本人が道徳的である所以はこれ以外ないのだと思える。悲しいことに先の大戦では多くの国民の命が失われ、領土や財産までもすっかり失われてしまった。しかしながらその絶望の中にあって少しも国民が希望を失うことがなかったのは、国民が尊崇の存在とする天皇陛下をその拠り所に出来たからだと思っている。
それ程大切な存在に対して、最近はそのような日本人の良識を覆そうと企む人たちがいる。彼らは自分たちの身勝手な常識を世界に触れ回っているが、その常識によって世界は逆に滅びかけている。というのも彼らが導く先には永遠と続く悲惨な戦争が横たわり、無秩序で無気力が社会を荒廃させている。結局一部の政治家により推し進められている夫婦別性や男女の差別際立たされることによってもたらされる社会の分断は必要のない対立構造を作り上げているからだ。これにより日本の皇統まで影響されるようなことがあれば、2700年に及ぶ日本の歴史や、これまで大切に培ってきた日本の魂まで存亡の危機にさらされてしまうのだ。このようなことが、国民の選挙も受けていない人達によって内政干渉ごときに及ぶのは、明らかに民主主義への挑戦である。