盾つく虫も好き好き
2025年 10月22日 日本のモラル
昨日はめでたく初の女性総理大臣が誕生した。とはいえこのことは女性男性の違いよりも保守と革新、右派左派政治の流れが大きく変わる分かれ目となるに違いない。そうだとすれば何が保守で何が右かという定義も曖昧ではこの先混乱が起こる。というのも日本には数多の政党がありそれぞれ実現したい政策が存在するからだ。
ということは、このことを一緒くたに扱うことは、あまりにも雑駁すぎる。とはいえこれでは話が進まないので、私があえてこのことに区切りをつけるとすれば、国というものをどのように考えるグループかで区切りを考えてはどうかと思う。要するこのような区切りは国や国民に対しての政治を考えるグループとイデオロギーが主体として政治を進めるグループの違いとは言えないだろうか。
では、このような区切りで移民問題などを見ると移民は国の治安を悪化させると警戒するグループと基本的人権が国の秩序より優先すると考えるグループとの違いになる。さっらにこのような見方を進めれば、夫婦別性についても同様なグループ分けが出来る。例えば、国家の在り方を何より優先する保守グループは戸籍こそ国の根幹と考えている。要するに国家とは国民同士の絆を示すものであり、その最小単位が家族の絆と考えるからだ。このため極右のレッテルを張られた右派の人達は、夫婦別性法案には断固反対の立場を取っている。しかも、その前段として登場したLGBT法案は、これが法制化されたためにすでに様々な混乱を日本社会にもたらされているのだ。というのもこのことが法律上男女性を無意味なものにしてしまい、これに関わるあらゆる法的根拠が排除されつつあるからだ。残念なことだが、医学的に体力差のある女性も男女平等の名のもとに、これまで厚く守られてきた待遇を強引に剥ぎ取られてしまった。因みにこれがどれほど阿保らしいことかといえば、男女の平均寿命は今や10歳ほどの開きがあるが、これを平等にしてくれと法律家に頼む人は居るだろうか。
ついでに言えば女性は排卵の起きない男性と全く同じ環境で働くことが当然だとされるが、先の政権ではこれでも性教育の予算はてんこ盛りだったそうだ。これでは政策の報告をしようにも、子供家庭庁の大臣が言葉にならないのは無理ないのである、つまりこれまでの政権はそれほど矛盾に満ちた政策を推し進めてきたということだ。ようするに医学的な根拠よりも、人類はすべて平等に扱われるべきだというイデオロギーの方が左派と呼ばれる人達にとってはよほど大切なのである。
不思議なことに、このようなイデオロギー第一主義の人達は民主主義という言葉が大好きなのである。何かといえば「それは民主主義に反する」などと宣う一方、最近は保守層に対し極右ばかりかポピュリストというレッテルを張る。挙句の果てには彼らから数の暴力などと言う言葉まで飛び出して来るのである。
それにしても、このような言葉を平気で使う彼らに、民主主義が成立するための条件を答えよ問われて、まともに答えることができるのだろうか。呆れたことに彼らの中には法を司る国家資格を有し、教育者としても最高位の学識を有するお歴々が名を連ねている。恐らく彼らが小学生だった頃は、いともたやすく正解を述べていたに違いない。
なんとも理解しがたい彼らの行動なのだが、それを取り巻く環境も何とも理不尽なものである。というのも先日ある討論番組でこれを仕切るジャーナリストが番組に出演した左派ゲストに、高市総裁を名指しして「あんな奴は・・・」と言って高市氏の生存を否定するような暴言を吐いていたそうだ。これに対しこの放送を行ったBS朝日は21日、厳重注意する旨謝罪した。私はこの問題は社会の道義上これで治まる問題ではないと思っている。
というのも、巷ではこのような心無い暴言によって多くの命が自殺に追い込まれてきた。曲がりなりにもジャーナリストの肩書を掲げるならば、このような悪質な暴言が、どれほど人の命を追い詰めてしまうのか自覚がないでは済まされない。もしも無いのだとすればこのような人間を起用した放送局の責任は重大である。本来公的な電波を使った放送であれば、このような放送は管理責任が問はれて当然の事態であり、これが厳重注意で済まされてしまう社会というのは、社会に蔓延るいじめ問題に、国はそれほどの認識しか持っていないことを認めてしまうことになる。つまりこの事件は日本社会のモラルそのものを問う国家的な問題なのである。だとすれば言論の自由よりも日本社会では公共の福祉や生存権が勝ることを社会に正さなければ、国民のモラルは維持できないことになる。
私は暴力反対、戦争反対を叫ぶことは良いことだと思っている。とはいえ、人の命も顧みない人達が叫ぶこのような言論には、正直偽善しか感じられないのだ。