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 今日のできごと

2021年9月14日gallery,今日のできごと

 

2021年 5月8日 「観自在」という作品

 

 

般若心経の冒頭に、観自在菩薩とあります。ある学者の方は菩薩ごときが釈迦牟尼仏を差し置いて何を語るかと、少しお怒りのようでこの経文の出自は如何にと言っていましが、「もともと菩薩は釈迦自身で、自分が般若波羅蜜を得た時」にと書いてあるので、菩薩から仏陀になられた時の体験談をシッタールタに解かれているようで、誤訳やその他思想のすり替えではないのではと思います。いつもの通り根拠については調べていません。(そのような文章と捉えてください)

 

さて私が、ここで注目したのはこの観自在という言葉です。この3つの言葉の組み合わせでそこに含まれる意味が微妙に変わります。例えば自ずと在ることを観るという捉え方もできますし。自在に物を観るという捉え方もできます。普段私たちが慣れ親しんでいる観自在菩薩の読み方は、観音菩薩です。ところがこの般若心経では観自在菩薩と表記されています。もともとサンスクリット語に近いのは「オン」の発音で漢字にすると、やはり音の字のほうがしっくりくるのではないかと思います。にもかかわらずあえて自という漢字を当てたのは何かしらの思いがあってのことではないでしょうか。穿った解釈をすれば私には「自ずと在る」ことが般若波羅蜜であり、そのことを観ること(知ること)が悟りではないかと思っています。

 

では、悟りを得た存在にもかかわらず観音様は何故菩薩と呼ばれるのか、私は、観音菩薩が表す多様性が、多様な階層をもつ衆生との縁を結んで頂くために必要だったのではないかと思っています。「仏様には恐れ多くて願い事など滅相もない。」なんって奥ゆかしく思われたのかもしれません。

 

千手観音、十二面観音など観音菩薩像にはこのような多様性を強調している塑像や絵画をよく見かけます。この世界にあっては人の数だけ多様な苦しみが存在している。その苦しみを同じ目線で受けながら手を差し伸べてくれる存在、それが観音菩薩ではないか。私の様な変わり者には頼りにしたい存在です。念念不離心

 

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Posted by makotoazuma