今日のできごと
2021年 1月6日 悟りと銭湯
今日も又、よせばいいのに閃きました。「悟りとは、混浴の銭湯だ。」と言い切る私、炎上覚悟にしては、伝わるものが安っぽい。人馬鹿にしているつもりも、茶化してるつもりもありません。
今日は、ふとそんなイメージが湧いてきました。というのも、スピ系が騒がしいんです。今更のことですが、実は、お釈迦様が説法を行っている時から、すでに、周りは騒がしかったそうです。もちろん周りは、弟子たち当然、仏陀アゲアゲなんですが、隠れたところでは足の引っ張り合いで、お釈迦さまも相当ウンザリしていたようです。
人と付き合うより、むしろ獣と付き合う方がましってジャングルに逃げ込んだほどの混乱だったようです。
現存する仏陀を目の当たりにしても、このありさまで、自分亡き後、いずれ末法が来る、と言いたくもなります。
不思議なのは、法に安らぎを求めて集っている人々の筈なのに、真逆のことが起こっています。気に食わないなら自分が、離れればいいだけなんですが、周りを巻き込んで火の粉を振りまく、滑稽というよりは、正義を振りかざしての攻撃は、たちが悪いです。
前置きが長くなりました。テーマに戻ります。このテーマは、悟りを目指している方をたとえています。悟りとは、結果に気づくことです。結果とは、涅槃に居ること、あるいは、帰ること。
そして涅槃については、涅槃に世界は1つであること、もし階層があったとしても同一であることに異論はないと思います。ところで、気づきの過程、悟りの至る道には、そこを目指す方の数だけ多様性が必要になります。つまり知性や育った環境によって理解が、違ってくるからですが、そのため、お釈迦様は、受け手の個性を尊重してそれぞれの法を説かれました。そのため経典が多種多様に存在するわけです。なので、経典に優劣は無いはずなんですが、そこにかみついてる方って少ないようなんですが、弱いところには、良くかみつくもんです。さて今の話をもう一度振り返ります。目指すところは涅槃の世界ただ1つです。
ところが、われわれ、人間はそれぞれ、個性をもって生まれてきました。遺伝子の違いであったり、生まれた環境であったり、どうやっても同じ個性が出来ない環境で育ちますので、涅槃に行きつくためには、さまざまな道をたどります。そこで、閃いたのが、「悟りとは、混浴の銭湯だ」です。例えば、男湯、女湯、それぞれ脱衣場が違っても、結局、くつろぐ湯舟は一緒みたいなイメージです。結局、悟りには、自分を頼りにするもよし、或いは、すでに湯船につかった自分を信じて強い信仰を持つこともよし、優劣は無いんです。結局、さとりって、自分が通った道しかないのですが、ゴールは、同じ湯舟なんです。
あーいい湯だな、ババンバ・バンノバン