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思考ラボ

2024年11月17日gallery,ようこそ

2023年 6/17 思考のまとめ⑨ 第3の世界

無の世界、空の世界などとこれまで私の勝手な思いつきを述べてきた。もともとこれが正しいことだなどと公言するつもりもなく、理解に苦しむことばかりの世の中をなんとか自分の拙い頭で理解するために整理しようと思ったのがこの投稿だ。だから客観性を求めることよりも私自身の納得を優先するという極めてエゴイスティックな動機がこの投稿のモチベーションになっている。

さて世の中には自分の五感では知ることのできない世界があるようだ。いわゆる心霊の世界はいまだに科学とは相反する世界のようにあつかわれているが、私はこれほど興味をそそられる世界もないと思っている。理屈はどうあれ私はラジオから稲川淳二さんの声が聞こえてくると、自然とラジオのボリュームを上げてしまう。

そうはいっても、やはり私にはこの世のもの以外を目にする能力はない、そんな不思議な存在を知ることが出来るのは常に人の噂だけだ。

ところでこれまで空や無の世界についてさんざん語ってきたが、この2つの世界だけではどうしても説明のつかないことがある。それがこれまで何度か登場している宇宙の意志という存在だ。つまり無意識がどのように有意識の個性を手に入れるのかと考えると、そこには有と無を繋ぐ存在が必要になると思うからだ。

私はそれが意識なのではないかと考えていて、その意識とは物質化していない思念だけでも存在することが出来る。たとえば一般的に脳で意識は造られると思われているが、実際脳を調べてみると脳には意識を司る機能はどこにも見つからないそうだ。ということは極端な解釈になるが意識は肉体を離れても存在するのではないだろうか。

それでは意識は何故肉体を必要とするのかという問題が出てくる、その答えは無意識の拡大つまり経験という情報は3次元の肉体を通してしか記録することが出来ないために意識という便利な存在も、肉体として存在すること無くして無意識の拡大という大義を果たすことが出来ないことになる。

このように意識は時空や物質に拘束されずに存在できればこそ、空の世界を俯瞰しながら物質である生命を創造することが出来るのではないだろうか。私はあの世とはこのような肉体を持たない意識だけの世界のことで、その目的は意識をこの世に物質として表現することなのではないだろうか。

命は偶然生まれるのか

ところでなぜ私が意識を生命に結び付けたいのかといえば、科学者の言う生命は単なる確率による偶然で誕生したという説明に疑問を持つからだ、私にとってはそれよりむしろ何らかの意志が介入していると考えるほうが馴染みやすい。このことをピアノの前に座った猿がベートーベンソナタを完成させるための確率に例えて何十兆分の一などと表現されることがある。そんなことは決してないというのが私の考えで、猿には決してあらゆる可能性を確かめるようなことは出来ない。おそらくやればやるほど猿の習性によって同じ間違いを繰り返し答えにたどり着くことは決してないと思っている。ましてや動植物の命はピアノソナタどころの確率ではとうてい説明することが出来ない。

そこで私はこのような意識の世界には神代に通じる厳然たる意志が働いているのではないかと考えている。つまりこのような時空にとらわれない意識によって新たな命がこの時空に送り込まれてくる。種の起源は突然変異ではない、しっかりとした意志と知性によって表現されたものだ。このことによってそこに誕生した生命によって、より多様な情報を無意識の世界に刻んでゆくことになる。つまり無意識の世界を拡大させるためには、どうしてもこの世に意識を具現化させる必要があるということだ。

しかしながらこの意識は生命を増やす方向にばかり向かっているのかといえば、そうとも言い切れないだろう。つまりこれとは逆向に作用する意識も同時に存在しているはずだ。そのことは、この世界が常に破壊と再生を繰り返していることからも想像することが出来る。

心霊現象とは

さてこのように肉体を失った意識は、仕方なしに意識のみの形で時空の世界を漂うことになる。私はこのような状態が心霊現象と言われるゾクゾクする出来事なのではないかと考えている。ときとして思いの強さは肉体を失った事実を受け入れることが出来なくなり、過去の生活を繰り返そうとするからだ。霊能者の言う浮かばれない魂とはこのような状況に留まる意識なのではないか、そう考えると憑依や地縛霊などの表現もあり得ることではないだろうか。今思い出したが昔、猿山での餌やりをビデオに撮っていたら鉄格子越しに猿の手のようなものが一瞬映っていた。ところが、その鉄格子はかなりの高さのところについていて通常では生き物が手を出せるようなところではない。確かにゾーとする話で実際あったことにもかかわらず、現在の物理学ではこのことを説明できそうにない。

ところでこの意識の世界は、仏典や聖書など数多く伝承によると、そこには多様な階層が存在していて、その構造はかなり複雑である。

話を私の妄想に戻せばその世界には、2つの意識があると考えている、一つは生命を創造しようとする意識ともう一つはそれを破壊しようとする意識だ。そのため肉体を離れた意識はどちらの方向に向かうのか、あるいはそれとはさらに別の選択、個性を捨て去り無意識の世界に再び戻ろうとするかの選択をすることになる。いずれの選択も結局それぞれの嗜好によって、どちらかに引き寄せられて行くのだろうが、だからといって究極的な無意識の世界では、ことの善悪による優劣はなくなってしまうだろう。なぜなら、このような個性の記憶は大いなる無意識にとっては一部の情報に過ぎないからだ。

このように我々の命は大いなる無意識の意志によって存在している、決して偶然で生まれるような簡単なものではない。

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Posted by makotoazuma