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思考ラボ

2024年11月17日gallery,ようこそ

2024年 6月26日 思考のまとめ⑫ この世は仮想現実か?

前回の未来はすでに決まっているのかを突き詰めると、こんな考察も成り立つかもしれない。つまり現在の体験によって過去が書き換えられるとすれば、未来から人生の書き換えがあった瞬間が現在の認識になるだろう、人生は新たにそこから始まるのである。何故ならもともと我々は未来を体験できないと定義されているからだ。実際このようなことが起こっているので、これを我々はデジャビュと認識しているのかもしれない。

ところが、このような現象が起こった場合、困った問題が出てくる。それはすでに起こった過去はどこに行ってしまうのかという問題だ。私は以前から世界は過去の記憶がこの世界を創っていると考えてきたが、もし未来の事象によって過去が変わってしまった場合、過去の記憶自体も消えてしまうのではないだろうか。

私はこのことがパラレルワールドという考えに繋がるのではないかと思っている。つまり世界は可能性の数だけ存在しているのではなく、過去の書き換えが起こった数だけ残存してしまうという細切れ理論だ。ここで誤解のないように注釈を入れると、細切れになるのは肉体ではなく記憶のことで、記憶は肉体と離れて存在しているということを受け入れなければこの説明を受け入れることは出来ない。

さて最近重力とは何かという動画を見たことで、改めて自分の思考を整理したいと思いこの記事を書いている。

ということでこれまで私は自分の認識が世界のすべてであるということを述べてきた。しかもその認識はたった一つの集合意識が受け取っている。そのためこれほど様々な生物が宇宙に暮らしていても、宇宙には異なる物理法則が存在したり、様々な現象が同時に起こっていても、この宇宙においては、いかなる現象も矛盾することがない。

逆に、もしこれらのことが事実だとすれば、時空間や物質の存在は怪しくなってくる。それよりむしろ世界は仮想現実だという説明のほうが、私にはしっくり来てしまう。というのも現代のCGの世界は、それを信じ込ませるだけの説得力を持っているからだ。一方物質を細分化して理解する物理学的理解は、現在私には大きな壁に突き当たってしまっているように感じている。例えば宇宙最大の謎と言われる重力にしても、はたして重力はいつまで粒子の認識でいられるのだろうか、というのもこの重力は宇宙に存在する力の中で最も小さな力にもかかわらず、その影響力は際限がなくその強さも果てしがない。これを粒子のような物質の作用だと考えると、私にとっては理解の限度を超えてしまう。

ところが、そもそもこれは観測者に備わっているアルゴリズムなのだと解釈すれば、広大な宇宙全体のストーリーが突然ファミコンスイッチの世界になってしまう。そう考えれば量子もつれなどの現象も情報が高速以上で行き来しなくても理解できるかもしれない。さらには、光の謎の特性と言われる粒子や波の特性を同時に持つという特徴も、観測者が何を目的に光を観測するかで変わる。つまり、この現象を光を粒子として観測すれば粒子、光がスクリーンに投影される現象を観察しようとすれば、今度は別に備わる波のアルゴリズムが発動されるてくるのではないのだろうか。

そのため近年様々な著名人がこのことに触れ、この世は仮想現実だという認識もだんだん市民権を得てきたように思える。さてこのことで最も重要なことは、何故我々は、このようなシュミレーション上に存在するのかということだ。私はこのようなシュミレーションにも創造主がいるのだとすれば、これによる創造主の望みはこの世界を拡大させることではないかと思っている。つまり拡大とは無意識の世界に体験という記憶をどんどんため込むことだ。私はこの拡大こそエントロピーの矢印ではないかと思っている。とはいえこの言葉の難しいところは無秩序の増大と解釈すると世界は崩壊に向かうと解釈しがちになるが、私はそうでは無くエントロピーとは、さらなる可能性の拡大と解釈している。つまり、現象世界は常に可能性の最大値を求めて拡散しているというものだ。

さて、この体験について深堀してみると、シュミレーションの回数を増やすことが、仮想現実の体験になるのではない。このことを具体的に動物の森というRPGを例して説明すると、このようなROGゲームはすでにあらゆる可能性を事前に想定して製造、販売されるが、この段階を私は体験とは解釈していない。体験はゲームのプレーヤーがゲームを実際に体験し、どんな思いを心に刻むかにあると思っている。つまりゲーマーのその時の思いが体験というものに変わるのだ。この時の体験でもっとも重要になるのが、そこに沸き起こるゲーマーの感情になる。要するにゲーマーが楽しい、辛い、怒り、悲しいを感じることによってどうぶつの森はシュミレーションという計算の世界を離れて、無意識世界に体験として刻まれるのだ。

もしを現実にそのまま置き換えれば、我々は自分の実体験を基に自分の感情にコントロールを加えることで、自分たちの幸せ体験をより多くここに刻むことは出来ないだろうか、つまり幸せの選択は我々ゲーマーの手にあるということだ。我々が同じ記憶を共有しているのだとすれば幸せの記憶を少しでも多くこの世界に刻みたいそんなことを思っている。それにしてもこのゲームには態度の悪いキャラが多い。

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Posted by makotoazuma