G-BN130W2PGN

お問い合わせ先

mail@makotoazuma.com

 

思考ラボ

2024年9月15日gallery,ようこそ

2024年 8月22日 パラドクス

昔し、アキレスと亀という北野武氏の映画を観てほっこりした思いがある。きっと周りからすると、私もこのようなパラドクスの住人のようだろうと思い、この映画には特に思い入れがある。さてこの映画に登場するパラドクスは一瞬納得してしまうのだが、現実的にこのようなことは起こらないことは誰でも想像がつく。ところが言葉や概念はこのような虚構の成立を簡単に作り上げてしまうのだ。

それにしてもこのパラドクスが現実に起りえないのは、そもそもの定義が間違っているからで、もともとこのパラドクス自体が、このような間違った議論を非難するために用いられたのだと言われている。とはいえ世の中にはこれ以外にもさらにややこしいパラドクスがある。例えばラッセルのパラドクスというものは、犬が出て来たり、床屋が出て来たり或いは村の村長まで登場してくるのだが、これによりこのパラドクスは、いよいよ複雑怪奇なものとなっている。それというのもこれらの例えは、このパラドクスをより分かり易く説明するために用いられた舞台装置なのだが、残念ながら私にはどの説明を読んでもピンとこないのだ。それは私の数学的理解の無さもあるが、それ以上に、そもそも集合とは何かというところに問題があるのではないだろうか。結局集合は複数存在するものの内、同じ要素で括られたもので成り立つ、つまり集合は複数あることが前提になるのだ。

さてこのパラドクスに登場する自分という要素は何んだろうか、それは自分と認識する要素全てを示すことだろう。当然その一方は自分以外すべてのものを示すことになる。ところでこの文章に登場した言葉は自分とそれ以外しか存在していない。何を言いたいのかといえば、集合は同じ要素を持つ複合体だと定義されていれば、この命題では集合そのものが成立していないことになる。つまり一般的に自己とはこの世に1つしか存在しない一人称だからだ。

ところで、私が今日ここで記事にしたかったのは、今、世界中にこのような訳の分からない議論が溢れているのだが、私が訴えたいのは、「その木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」matt.12:33 という言葉に尽きる。なんといっても戦争はやはり人類最悪の選択だ。

gallery,ようこそ

Posted by makotoazuma