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新 思考ラボ

2025年8月8日ようこそ

2025年 8月8日 AIと善悪

果たしてAIには善悪に対する価値基準は本質的に持つことが可能だろうか、という問いを立ててみる。これは法律の解釈をAIが可能かという問題ではなく、そもそも物の価値判断をAIが本質的に備えることが出来るかどうかという、ある意味人類は概念の共有が可能かという問題にもなる。これが何故疑問になるかといえば、概念というふわふわした認識は計算を基本に発達してきたコンピューター技術にとって最も手ごわい感覚ではないかと想像するからだ。

というのも私は人間という存在は、そもそも正解という概念を心の底では手放した存在ではないかと思うことがある。特に人間社会が複数になると、それぞれの個性には、独自の基準を持った善悪が存在しているために、これに基準を設けることは、経験上不可能ではないかと思うからだ。

というのも私がそのように感じる根拠は、何故民主主義という全く合理性を欠いた方法が人類にとって社会的意思を決定する手法になったのかと考えるからだ。これをもう少し具体的に言うと、そもそも人類は共通認識を追求するというよりも多様な認識の混在する社会でいかに個性の存続を果たすのかと言う事が人類の命題ではないかと思うのだ。つまり人類は一つの概念を共有することよりも、認識の数により社会的立場の優劣を決めることを選んだ、というよりそれが好ましく思うのが人間の本性ではないかと思うのだ。さらに言えばもう少し高度な文明になると、その認識が全体で共有できるまで熱心に議論の擦り合わせを重ねてきた文明もある。いわゆる万機公論に決すべしとは、数の優越とは距離を置く日本独特の文化のようだ。またこれとは別に善悪の基準を人類の意識の外に求める宗教的認識がある。

つまり現代に生きる我々のほとんどが、このような基準の組み合わせを受け入れ社会生活を営んでいる。とはいえ今では極少数となってしまったが、人間の創った理念を絶対とする共産主義の世界も実在している。

さて上記に上げた2つの世界でAIとの親和性を考えれば、考えるまでもなく一つの概念を共有することで成り立つ共産主義国家がよりAIとは親和性があることは容易に想像がつく。ところが、そのもっとも合理的な思想である共産主義国家は、世界では未だに少数派であり、近頃、何故か人気が薄れている。というのも世界で最も巨大な共産主義国家をみれば、国の発展のため経済活動に市場原理を導入した結果、経済は目覚ましい発展が見られたものの、それにより、貧富の差が資本主義国家以上に拡大してしまっている。

私はこのことへの問いが、AIによる善悪認識に対する限界が見えていると考えている。どういう事かといえば、人間に備わった善悪という認識は、そもそも認識の多様性が前提となっているのではないかというものだ。そう考えればAIによって最適解を求める社会は、恐らくどこかの段階で行き詰りを見せる可能性があるように感じている。

ようこそ

Posted by makotoazuma