思考ラボ
2024年 11月3日 理想と現実
理想に対し現実をどのように捉えるか、理想とはいわゆる言葉遊びのようなものではないのか。現代の哲学者はこのような問いに悩まされる。ではこのような問いはいつ頃始まったことなのか、遡ってみると古代ギリシャの哲学者プラトンに行き当たる。
氏の言葉によると人間は生まれる前は理想の環境に存在していたのだそうだ。ところが現世に生れ落ちる途中でその理想世界をすっかり忘れてしまうのだそうだ。要するに現実世界が混沌としているは、そのせいなのだそうだ。この視点に立てば古代ギリシャでは、理想と現実はその延長線上にあったと考えられる。言い換えれば理想は現実世界の原点だという事になる。また同時代を生きた哲学者デモクリトスは存在の根源はアトムという最小単位の物質なのだという。これによりデモクリトスは古代ギリシャ哲学における唯物論の完成者と言われている。とはいえ、同時にデモクリトスは精神世界についてもその記述があることから、現代人が認識する原子構造や物理学的理論を踏まえた唯物論の認識とは一線を隔すようだ。さらに言えば私は19世紀に誕生したカールマルクスの用いる弁証法的唯物論は、時代による社会的影響が色濃いことから、デモクリトスと同じ唯物論で括ることは難しいのではないかと感じている。
さて話を理想と現実に戻すと古代ギリシャの哲学者はいずれの哲学者も精神的視点を抜きに理想を語ることはなかった。ところが、その理想が現代に至る間に、精神性という視点を失い、その結果、現代人にとって理想を述べることは、空虚な言葉の羅列になってしまっているのではないだろうか。たいがいそのような考えを持つ人は、誰にでも見境なく「現実をよく見ろ」などと言ったりする。要するにいくら言葉で良いこと言っていても、「これまで現実世界が、理想に近づいたためしなど一度もない」とでも言いたげだ。
私はそのような認識こそマルクスによる弁証法的唯物論なのではないかと考えている。因みに近代哲学における唯物論は観念論を書いたドイツの哲学者ヘーゲルである。この哲学者に対し有名な経済学者マルクスはこのヘーゲルを「頭でっかち」と非難している。要するに「現実」を見ろという事なのだ。
ではその現実とは何か、因みにカールマルクスは1818年プロイセン王国で生まれる。そして人生の最も多感な時期に隣国で起こった1830年のフランス7月革命による世界的うねりの影響をもろに受けることになる。このことはカールマルクスの哲学に少なからぬ影響を及ぼしていたはずだ。このような時代における社会的影響により、しかも暴力的変革こそ時代の求める現実と捉える風潮が、その時代の趨勢になってしまっているのだ。つまりそれまで対立する議論の歩み寄りが弁証法の本質であったはずが、対立の解決には躊躇なく暴力が用いられるようになってしまったという事だ。
これ以降唯物論をイデオロギーとする世界では、粛清という名の基に幾多の尊い命が次々失われていった。このままでは現実が理想の延長線上に存在することは難しい、つまり現実は常に理想による否定になってしまったからだ。ではこのような哀れな現実を乗り越えることは可能だろうか、無論そんなことはいとも簡単なことで「これは間違った考えである」と認識するだけのことだ。