思考ラボ
やってわかった座禅のこと
結局私は表面的な事を見て物事を決めつけていた。という私にとってはとても恥ずかしいお話です。
私は今月の7月より禅サンガというWebサロンのようなところに入会しました。入会の理由は主催者である阿部敏郎氏の活動に共感できたからです。
ところが、あとから考えてみると、このサロンに入って自分が一体何をしたいのかあまり考えていませんでした。
自分が思っていた座禅のイメージ
で、衝動的に思ったのが座禅です。私はかねてより座禅には興味があったのですが、これまでは座禅のことを正直非生産的な行為としかとらえていませんでした。働き盛りのいい大人がこのような行為に及んでは国の行く末が案じられる、ちょっと大げさでした。
私の凝り固まった一方的なイメージでは、座禅とは肉体の活動を止めることによって己の精神を解放させる行為ではないか。であるならば肉体は現世の主体なので精神の解放は現世からの解放だ。
なんて勝手なイメージだけで座禅を捉えていました。ところで今日は3回目のレッスンで普段は夜間アーカイブでの視聴でしたが、今日は意を決してライブに挑戦しました。
ライブは朝6時からの配信で勤め人にはつらい時間帯です。ですが、やれるとこまでやってみようと思い今朝はライブで配信を受けました。
肉体と精神の融合
いつもは向井さんのレッスンで座敷に座ってのこじんまりしたレッスンだったのですが、今日は広い本堂で別な方がヨガマットの上に立ちストレッチをレクチャーしていました。これまで私は座ることが座禅だと思い込んでいたのですが、そのイメージがすでに間違っていたことに気づきました。
今までも座る前に必ずストレッチが行われていたのですが、私はそのことを長時間座るための準備運動と勝手に思い込み適当に受け流していました。
ところが今日は早朝にもかかわらずライブ参加できたこともあり、何故か体を動かしたい衝動にかられました。
そこで、インストラクターの導くまま一緒に体を動かしてみました。そういえま向井さんもこんな風に、上を見たり下を見たりやってたなと思いながら、「首を回しましょう」といえばその通り、「天井を仰ぎましょう」といえばその通りに体を動かしてみたんです。すると心の底からとても新鮮な思いが溢れてきました。
首がゴリゴリ音を立てる様子や天井を仰いでも「こうやって天井見るの、いつ以来だっけ」なんて思いながらやっていましたが、ストレッチがどんどん進んでいくと、その動きは詳細になり、単に体の筋を伸ばして、今やっていることが単に体をほぐすためだけの行為ではないように感じてきました。
ではなぜこのように体の隅々まで意識的に動かす必要があるのか、それは、「精神と肉体の一体化」をこのようにして行っているのではないかと思うようになりました。
思い込みの崩壊
ということは、「肉体を空しくして精神を開放する」などとは全く逆のことをしているということです。
まるで、このストレッチは自分の体がどこからどこまであって、その末端までちゃんと精神が行き届いているのかどうか、わざわざ詳細に確認しているかのようです。
一般相対性理論から見る座禅
ところで、非生産的に見える最大の要因、「身動きしないで座り続ける」のは一体どういう意味の行為なんでしょうか、ここで私は、突如としてその説明に一般相対性理論を使ってみようという、悪ふざけにもとられかねない思いが湧いてきました。
つまり座禅をしている行為者とそれを眺めている人の立場によって、座禅という姿が違った解釈になるのではないかというものです。
まずは座禅の行為者の目的は今この瞬間に身を置こうとする行為であると仮定します。ということは行為者にとっては体が動こうが動くまいが、その行為の目的ではないということです。
座禅の目的
では、その行為の目的は何かといえば、すでに一体化した肉体と精神をその瞬間にを置こうとする行為、或いはその瞬間に留まろうとする行為ではないかというものです。そもそも、今という時は、過去と未来のはざまに出来ます。ただしそこには幅というものがないために、在るのに無いという事態を引き起こします。それはどこまで行っても瞬間でしかありません。つまり時空が存在しない状態、つまり静止状態しかないんです。
もし、その状態を時間の世界にいる人が座禅をしている人を観察すると、ただ止まって見える。丁度一般相対性理論の光速で移動する人を地球から眺めた状態のようです。かなりうがった見方ですが、このことから「座禅は動きを止めることが目的とする行為では無い」というのが今日の私の気づきです。面白いと思いませんか。
「ね、ね、・・」