思考ラボ
動機と言い訳
いつもご覧いただき有難うございます。久しぶりにご挨拶から始まりましたが、この文章を読まれている方は、私の文章に対してすでに免疫をお持ちの方だと思って文章を書いています。それほど探しずらく通りすがりの方が訪れることは無いと思いながら文章を書いています。
早速言い訳がましいことを書きましたが、私の文章には資料的な事や、未来を想定した学術的な側面はこれぽっちもありません。自分の思いがすべてと思っています。なので、真面目に研究をされている方が読まれる文章ではありませんのであしからず。
で、今日のタイトルは、サスペンスや刑事ドラマではなく、仏教と道教の立場についてです。
実は以前観自在のタイトルで般若心経について、ある学者の方が般若心経は仏典とは言えないのではないかなぜなら、空や無についての認識は道教に基づくからだと述べられていたと思います。(この時点で、ソースの確認をしていません)
で、確かに般若心経に登場する空や無の認識は、すでに、道教の中で受け入れられていた認識だと思いますが。お釈迦様が菩提樹の元で微笑まれた認識は当時のインドの言葉をもってしても当てはめることが困難なことではなかったのではないか、まして仏説は口伝によっての記録しかないことから曖昧な表現の寄せ集めにならざるを得ないと思います。
般若心経で終始語られているのは、我々の認識出来る現象世界と認識を超えた世界の統合です。そのことを強調しながら時空を超越した世界、いまここの世界がリアリティーであることを伝えようとしています。
つまり不生不滅の世界が永遠のリアリティーだということです。このことによって生老病死の連鎖から人類は解脱することが出来るのだと仰ったのだと思います。
ところで、この時空を超えた世界の説明には、すでに道教がその核心を言葉に記していました。それが空や無という認識だと思いますが、そのどちらもアンチテーゼによる認識です。つまりそのものを指してこうだというのではなく、それ以外のものをこうだと言っています。
最後にお釈迦さまの伝えたかったことは、自分の抱えた問題は人類の永遠のテーマだという思いとその解決が気づきによる解脱で、そこに人類を導こうという思いに貫かれた人生だったと思います。一方の中国に広まっていた道教については物の理解について語られていますが、だからこうしろと言うよりはいかに人類が受け入れやすい環境に暮らすかに焦点が当たっているように感じます。