思考ラボ
人生の目的
いきなりすごいタイトルですが、突然思いついたので、突然投稿しました。でそれがわかれば人間苦労はしないと思われるでしょうし、この命題はすべての人類が抱える思いなので、私のようなものがパジャマのまま投稿して良いものか、それだけ重いテーマということも認識しています。
私たちが抱える現存とは
では何故このテーマに重さが必要になるのでしょう。人間物心がついてくると何かしら罪の意識が自我の目覚めと共に育ってきます。私はこの罪の意識とは、社会規範と人生の整合性を維持するため出来上がった意識だと思っています。例えば泥棒という罪は法律によって定義されている処ですが、宗教によっては心に浮かんだだけでも罪と解釈させられます。嘘についても姦淫についても、私たちの心の中は罪だらけで神の奇跡でもなければ決して救われることはないと断言しておきます。人間は、いずれの宗教の中でも罪深い存在であることに違いはありません。
では、それほど絶望的に罪み深い存在が何故出現するのかという疑問が「人生の目的とは」という疑問につながるのだと思います。
ところで、私は原罪というものには距離を置いています。「異教徒ですから」ということよりも、完璧な存在から生まれたものがそのような間違いを抱えて存在することが考えづらいためです。なので私はこの世に罪など存在しない。罪は人間社会の作ったルールでの解釈だと思っています。
この世に波を起こす
さて、そのような罪も穢れもない存在は一体何を目的に存在しているのか、目的があるとすればのお話です。もしここで、私の投稿をつぶさに読まれている方がいれば、「体験をするためでしょ」と答えが返ってくるかと思いますが、今日はその先の回答を用意しました。それが「この世に波を起こすこと」です。どうゆうことかといえば、私たちは生きている環境の中では常に全宇宙に対して波を起こしています。それは、身体を使った行動に限らず、頭に思い描くだけでも。宇宙に波動を送ることになります。もっと一般的な言葉で表現すると宇宙に影響を及ぼすということです。
「現世での体験」という次元の解釈から「この世に波を起こす存在」であるという解釈に行き着きました。自分の考えや、たとえ自分が身体的に行動できない環境にあったとしても、自分の存在によって周りに何らかの動き、つまり波動を起こしている存在であることに違いはありません。私たちの存在は、その大きさに差は有っても何らかの波を起こしあって共鳴している存在だというのが今日の私の気づきです。それは、人類、動物植物、有機物無機物の仕切りもなく共鳴しあう存在には変わりが有りません。
人間のルールでは迷惑この上ない波動だったとしても、宇宙の多様性、広がり、豊かさの視点で見ると受け入れてしかるべき存在です。宇宙は一つであって欠けて良いものなどどこにもありません。あなたが恥ずべきだという思いも宇宙にとっては、やっと生まれた命かも知れません。だから望み通り今日も思いっきり波を起こしてやりましょう。