思考ラボ
言語とプラモデル
前回の話を要約すると言葉には限界があるよねってことです。言葉で表現できるのは私たちが現実と言っている現象世界についてです。ところがその外側を表現しなさいと言ったら急に言葉に詰まります。あえて表現するとすればシュルレアリストの書いた文章ではないでしょうか。あれは理解されると困る文章なのであまり理解しようなどと頑張らない方がよろしいかと思います。
では、現象界の外に向かうためには言語の世界を飛び越える必要があるのではないかということです。言葉が作り上げるのはまさに思考の世界です。
思考は時間と空間の世界を我々の意識に刷り込みます。だから思考が創り出す世界を絶対の存在と認識してしまうのですが、そこで納得のいく方はそれで充分なんです。
ところがその現実を受け入れようとしない連中が、様々な抵抗を試みます。そんなことをしたらせっかくできた秩序が保たれません、人はいずれ老いては無くなるという大いなる秩序が乱されるんです。人は生老病死の苦しみから逃れることは出来ないそれでいいではないか。いやいやそんなはずはないという困った人たちです。
そんな言葉の本質は表現のための単なるパーツでしかありません。これをプラモデルに例えると組みあがるまでは不愛想な部品の塊でしかありません。そんな部品の塊を眺めて楽しいイメージがどんどん湧いてくる方はまず、まれです。では何故プラモデル作りが、それほど楽しいのでしょうか。
実は部品の詰め込まれていた箱にその答えがあります。通常プラモデルのパッケージには部品の組みあがった時のイメージが描かれています。かなり誇張されてはいますが、私たちは組みあがったプラモデルをそのパッケージに描かれた想像図に重ね合わせて夢の世界に浸ります。
プラモデルつくりは、プラスチックで組み上げた塊を通して夢の世界に浸りきる遊びなんです。
つまりプラモデルを組み上げる遊びも現実を通して夢の世界に遊ぶ切っ掛けでしかありません。
もし、言葉がプラモデルの部品だとすれば、言葉のパーツで組みあがったストーリーとは何なのかということです。
言葉で組みあがる思考の世界も、結局は実体のない想像の世界ではないのか、ということです。そうであるならおもちゃで遊ぶ楽しさも、言葉で表現されるすべての現象も、元は同じものだと言えないでしょうか、だとすれば、「それおもちゃです」と言っても、「ではおもちゃでは無いものを見せてくれ」と言われたとしらどうでしょう、おもちゃの世界では、おもちゃ以外のものを表すことが出来ません。
おもちゃの世界を離れるには、おもちゃから手を放す必要があります。そしておもちゃじゃいやだという決意が必要になります。